■「光と闇に漂うマネキン美」
藤井 秀雪
はじめに
マネキンはファッション空間において、服を見せ、服に人目を惹きつけるための理想の身体イメージを持った等身大の人形である。その歴史はヨーロッパで1世紀半、日本で独自の洋装マネキンが登場して80年に過ぎない。マネキンはいつの時代も、光の空間で、最新の衣裳を身に付け、眩い照明の下で輝ける存在であり続けてきたが、使い古され、役割を終えた後は、無残にも廃棄される儚くも悲しい運命が待っている。それは、愛玩対象である他の人形と異なり、ファッション産業における商業空間の道具としての役割により、古くなったとされるものは、近代産業遺産と化す。ところが、保存する対象にされていなかった時代(1980年代後半に、株式会社七彩がその段階で残していた歴史的資料マネキンの保存を決定するまで)は、基本的に廃棄され、遺産として存在し続ける条件そのものがなかったのである。ただ、廃棄対象となっていたマネキンを再生し、新たなマネキンの創造に結びつけた事例として、1982年に東京飯倉のラフォーレミュージアムで開催された「イッセイ・ミヤケビデオパフォーマンス」の事例が特筆される。これは廃棄マネキンにおが屑を付着させた数十体のオブジェ化したマネキンに、最新の三宅一生のコレクションを着せ、空間演出要素に使用すると言う画期的な試みであった。これを契機に、マネキンはアートと出会い、新たな境地を開いたのであった。さらに2000年、近代産業遺産アート再生計画の提唱者である関本徹生による108体の廃棄マネキンによる「百八煩悩」であろう。これこそ近代産業遺産のアート再生と言って過言でない。
本稿は、マネキンが造形作家により生み出され、美しい衣裳を身に付け輝く、光の空間のマネキン、つまり人の思いによって輝く時と、暗い空間に裸体で林立し、いつ訪れるか知れない次なる出番を待つ倉庫のマネキン群。再び新しい衣裳を着ることがなくなった歴史的資料マネキン。そして粉末にされ廃棄されるその瞬間を待つマネキン等、光と闇の空間を彷徨う主として婦人マネキンのイメージをひも解きながら、もののあはれを感じつつ、ものに対する畏敬の念を込めて、アートの力で近代産業遺産の再生を図る意義を明らかにするものである。
1.光の空間のマネキン美
@形づくられる身体
人間がマネキンに、最初の光を与えるのは、他でもないその姿かたちが生まれる時である。
マネキンの原型は、美術彫刻の人体像の制作プロセスと基本的に変わりはない。マネキン作家に求められる能力は、ただ単に人物像を立体的に制作出来るだけでは不十分である。まず日本人の女性をイメージしたマネキンの場合、機能的な側面として 標準的なサイズ(JIS規格の9AR)の服にフィットし、尚且つ服のデザインやシルエットを美しく表現出来る(着こなせる)体型、ポーズを造形化しなければならない。そのためには、人体解剖の知識と服の構造を熟知しなければならない。骨格や筋肉、身体の微妙な膨らみを絶妙なバランスで美化することが基本と言えよう。しかも、粘土で原型を制作する過程では、実際の服を試着することが不可能であるため、普通の服を直立した姿勢できちんと着る人体を作るだけでも容易でない。まして、動いている瞬間のストップモーションや時代の先端を行く理想体型等、マネキンの完璧な身体造形に到達するまでには長い道程を要する。さらに重要なことは、リアルマネキンの顔の制作である。顔がないヘッドレスマネキンや抽象マネキンの類いもあるが、リアルマネキンは、マネキンの真髄と言って過言でない。それは、服に人目を惹きつける最大の要素が、顔にあるからである。服にインパクトがなければ、顔の方が目立ってしまう。服のイメージを膨らませ、人目を惹きつける顔とはどのようなものか。使用する人は、好みの顔、イメージに合う顔を選択すれば事足りるが、作家はどのような服にも合わせられるような普遍的な顔を作ろうとする。それは現実に存在しないイメージ上の顔なのである。欧米のマネキンは、リアリティを指向する国民性を反映し、実際の人間により近い、骨格がしっかりした立体的でインパクトの強い顔を好む。しかし、日本人は、京人形の美を反映し、何処にも存在しない創作的な顔、しかも優美で可愛い顔を好む。マネキン作家は、顔作りに余念がない。そのために街を歩いていても人間の顔に始終関心を払っている。見ているのは顔の部分、例えば唇であったり、眼であったり、あるいはバランス美であったりする。こうして、作家の思いは、粘土に投影し形状化される。そのプロセスは、まるで新しい生命体が誕生する時に似て感動的である。
A装う身体、彩られる身体
マネキンは、服を美しく魅力的に着こなす身体であってこそ存在意味がある。そのためには、すでに述べたように、標準的な既製服をより理想的に着こなす身体が求められる。つまり、現実をいかに理想の方向に近づけるかが問われるのである。したがって現実の日本女性とは多少かけ離れたプロポーションを有している。欧米のマネキンはファッションモデルの身体バランスで作られているため、ある意味で理想の現実だが、日本のマネキンは、現実と理想の融合体と言ってよいだろう。
次に装いの効果を高めるための理想化される身体部位について触れたい。先ず身長が20代の日本女性の平均身長より10cm程度高く作られていることだ。但し、平均的寸法より長く作られているのは脚(それも膝から下)と首である。顔は小さく、身長とのバランスで見れば9頭身になる。ところが身長に比べて腕が短い。これは標準的な既製服の袖丈に合わせるためである。身長が高いのに腕が短いのは、アンバランスだが、これを調整するために手を大きくしている。もう一つアンバランスなのが足の大きさだ。これも標準的な靴のサイズに合わせるためで、23.5cmに設定されている。これは身長に比べて明らかに小さい。さらに、体全体が、やや細めに作られていることもマネキンの特徴だ。このわけは、人間のように弾力ある体表面とは異なり、硬質プラスチック製のマネキンの場合、細身のパンツを容易にはかせることが困難なためである。まだまだ美しく見せるための仕掛けは奥が深い。バストの大きさである。日本女性がバストを大きく見せたい願望を抱いても、安易に迎合することはない。それは、バストの大きなマネキンは、服を美しく見せないとの理由からであった。但し、マネキンの体型は、バストアップ、ヒップアップした形状に作られている。
次に美しいポーズについて述べたい。1980年代以前は、所謂モデルのきめポーズがマネキンポーズに影響を与えた。しかし、1980年代半ば以降は、ファッションデザイナーの自然指向が影響を与え、きめポーズ型のポーズは不自然で媚びているとの理由で自然体になり今に至っている。しかし、マネキンのポーズは、静止した美にその真価が発揮される。1960年代初頭にパリ在住のマネキン作家ジャン・ピェ−ル・ダルナが七彩のアトリエで制作したマネキンポーズの身体造形(ダンスの動きのストップモーションを思わせる)はマネキン史に残る美しいポーズであった。考えてみれば、マネキンは美しいポーズのまま永遠に停止することが可能なのだ。ある時、優美な座りポーズのマネキンを見たディレクターが、プロのモデルならこのポーズは可能だが、15分が限界だろうと言ったことがあった。
マネキンの身体は、FRPと言う強化プラスチックで作られている。FRPは強くて軽く、成型と着色が容易なマネキンに好都合な素材であり、1950年代後半に、紙を主素材とした楮製紙製マネキンから転換し、今日も引き継がれている。身体は、服の着脱と製造上の制約から、上胴、下胴、右腕、右手先、左腕、左手先、それに片方の脚が大腿部で分割されている。これはジーンズ等パンツをはかせるためである。これらを製造する工程はすべてハンドメイドであり、熟達した職人の手に委ねられている。以上が装うために形作られる身体についての考察である。
次に、ファッションの変化に対応するための、表現の領域である、彩られる身体について述べたい。マネキンの表面は、肌色と称してラッカー塗料を使ってガンで塗装する。リアルマネキンの肌色は、白に近いモノから褐色の肌色まで、自由に施すことが出来る。最も人間の皮膚の色にこだわる必要はなく、マネキン固有の肌の色があって当然だ。例えば、金、銀、赤、黒、青等の単色、さらには金属、木、紙、石のような質感を塗装で表現することも可能で、これらをオブジェマネキンと呼んでいる。人間では不可能だがマネキンであるが故に可能な身体表現は数限りなく存在する。
さて顔のメークやヘアスタイルになれば、表現領域は飛躍的に拡大し、服のイメージと密接に連動する。特にメークは、人間の場合はメークアップと言う。メークアップとは、そのモデルの顔の個性(或いは欠点)を生かしつつ、より魅力的にクリエートすることを意味するのだが、マネキンの顔はもともと造形的に美しく欠点が見当たらない。下手にメークすると返って端正な造形美を損ねてしまいかねないと、プロのメークアップアーチストを悩ませたことがあった。顔は同じでもメークによって若くもなり、大人っぽくも見える。悪女にも淑女にも変幻自在である。流行が変わってもメークを変えることにより対応可能となる。その意味では人間も同じだが、表情を変えることのないマネキンの場合は、眉毛のカーブやや太さ、長さ、描く位置、口紅の色はもとより、輪郭のとり方で大きく変化する。微妙な違いを受け入れるのがマネキンなのだ。人間のメークにない極めつけのマネキンならではの表現は瞳孔だろう。他の人形でもそうだが、眼の描き方一つでそのマネキンが生きも死にもする。ただマネキンの場合、視線を少し外すことを心掛けている。視点を合わせると見つめられている印象が強調されるからだ。確かにどこを見ているのか定かでない視線の方が、雰囲気を漂わせているように見えるのは事実だ。こうして装うための身体、彩られた身体を与えられたマネキンは、街に出かけて行き、光の空間で美しい服を身に付け、人々に夢と憧れを振りまくのである。
B空虚な身体、不変の身体
マネキンの身体の空虚さは、厚さ3ミリ程度の冷たいプラスチックで被われた皮膚と空洞化された体内、少し強い風に晒されると転倒する10キロそこそこの重量、塗装で被われた薄っぺらい皮膚感、固定された身体、服を着せる目的のために分割された身体、自ら自立することが不可能な不安定な身体、と言った見た目の印象は無関係ではない。しかしマネキンは、自らの意思や能力を持ち合わせない空虚な存在であるが故に、人は思いをかけ、輝きを与えようとする。マネキンはそれらを盲目的に受け入れる。それが美しかろうが、醜くかろうが、一切マネキンの意思を反映したものではない。人間から見れば成すがまま、マネキンから見れば成されるがままである。その姿がどのように美しかろうが、美しさへの賛辞はマネキンにではなく、ファッションに向けられている。その一方で、マネキンの美しさにそぐわない、野暮ったい服を着せられることもある。ヘアメークも思いが感じられない粗末でおざなりのものであったりする。しかし、マネキンは、そうしたことに一喜一憂したり、喜怒哀楽を表すものではない。それは、マネキンが人形である以上、当然のことなのだ。しかし、人間にはモノを単なるモノと片付けず、そのモノの姿かたちから、モノに宿る「心理」を感じ取ろうとする感性がある。空虚さは、意思や感情を表そうとしないマネキンそのものから感じとろうとする、人間の感性の産物に他ならない。
マネキンの身体は不変だ。塗装が劣化したり、紫外線で退色することはあるが、原型作家が与えた身体形状は、物理的な衝撃で変形することはあっても、自ら変わることはない。何よりもマネキンには、人間のように、肉体的な衰えがない。このことで思い起こすのは、フランスの写真家ベルナール・フォコンであろう。彼は、ソルボンヌ大学で哲学を学び、27歳の頃、マネキンとの出会いがきっかけで写真家を志した。彼の写真には、少年のマネキンと人間の少年、それに自分が少年期に過ごした南仏のプロヴァンスの田園や家々や秘密の場所が登場する。写真を通して彼が描こうとしたイメージは、少年の心に潜む夢や憧れ、時として狂気とも感じられる心象風景であった。1989年には、写真家としてフランス国家大賞を授与されたが、その時すでに少年のマネキン達と決別を決意して久しかった。その年、彼が残した83体のマネキンを撮影した「最後の肖像」が、マネキンが登場する最後の写真となる。これらのマネキンは縁あって、京都のマネキン企業の七彩がコレクションするのだが、その時彼は、マネキンはいつまでも少年のままだが、自分は歳老いてゆく、マネキン達は自分のもとから遠ざかって行くと述べている。まさに不変の身体を意味する言葉だ。そして家族や兄弟のように愛され続けたマネキン達は、廃棄されることなく、人の思い、つまり光を享受し続けることとなった。しかし、再びプロヴァンスの眩い光の下で、天真爛漫な時を過ごすことはなくなった。マネキン達がフランスから京都に来て、早15年余の歳月が流れたが、今も、暗い土蔵の中で、瞬きすることのない瞳で闇を見つめている。
C閉塞空間のマネキン ショーウインドー
パリの高級店のショーウインドに、蝋製のリアルマネキンが登場したのは19世紀後半であった。密閉された空間では、社交界の紳士、淑女のマネキンが、華美な衣裳を身に着け、宴の時を演じた。それは市民にとっては、憧れの空間であり、光の空間であった。同時に叶わぬ夢の世界でもあった。こうしたショーウインドーのイメージは万国共通で、わが国でも、モダンな洋装文化が市民の間に浸透を見せた1920年代においては、百貨店のショーウインドーで繰り広げられる世界は夢のまた夢であった。この状況は、モノが不足していた戦後も引き継がれたが、モノが溢れている現代においては、ウインドー内部の世界と現実世界の差異が次第に薄れつつあることは確かだ。しかし、昔も今も変わらないことは、ショーウインドーと言う空間が、密閉されていることにある。ショーウインドーは、大きな板ガラスの前面部分以外は、3面が壁面で囲われていることが一般的だ。人の出入りとモノを出し入れする扉以外は、天井が抜けていて照明機材が取り付けられている。ディスプレイ担当者はウインドーに入り作業をする。密閉された内部空間は、外を走る車の音も、人の話し声も届かない。外の光景はまるでサイレント映画を見ているようだ。予めメーク、マニキュアを施した、突っ立ったままの裸のマネキンに服を着せる。もちろんマネキンは人の成すがまま身を任せている。着せ方が悪くてもマネキンには何の責任もない。それは着せた人間の着せ方の技術や神経の粗さの投影に過ぎない。着せる服の中でもジーンズやタイトなパンツを着せるのは、片脚を外しての作業が伴うためかなりてこずる。靴も細身のブーツともなれば女性の力では過酷だ。その間マネキンは一切表情を変えない。その平然とした姿に、人形と知りつつも、たいしたものだと感じてしまう。服を着せ終わるとウインドーの所定の位置に配置する。マネキンとマネキンの間合い、微妙な向きの変化に対して表情を変える。その変化に人は驚き、感動する。さらに入念に照明を当てると、見る見る空間に生気が蘇る。マネキンは呼吸を始め、輝きを増す。さらに服の色やイメージに合ったヘアメークを施し、美しさを増幅させる。ネックレス、イヤリング、時として帽子、手袋をつける。こうして、徹頭徹尾、人はマネキンに手をかける。かければかけるほどマネキンは光輝く。
作業が終了し、人は小さな扉の鍵をかけて外に出る。ショーウインドーの前に立ち、美しいままに凝固した空間にしばし見とれるのだ。次に人が入り、服を着せ替えたり、模様替えをしない間は、ウインドーの中の時間は停止したままだ。真夏の昼間のウインドーの内部温度は、50度をはるかに超える。その居心地の悪さ、閉塞感は想像を絶するものがあるが、マネキンは一切苦痛の表情を表そうとはしない。その平然とした姿に、人形と知りつつも、品性を感じるのである。そして魅せることに徹する、その悲しくも美しい姿に、人々は無意識のうちに心を奪われているのである。
D開放空間のマネキン 展覧会/インスタレーション
1980年代前半、マネキンを閉塞空間から開放した立役者は、冒頭に述べた通り、ファッションデザイナーの三宅一生であり、マネキンのデザインと空間演出を担当した毛利臣男である。彼らは、映像や照明がシンクロする新しいインスタレーション空間の演出素材としてマネキンを位置づけた。そしてその後相次いで、おが屑、シリコンゴム、半透明プラスチック、金属製線材等、従来使用されなかった素材で人体の造形化を試みた。中でも1983年東京を皮切りに欧米を巡回した「スペクタクルボディワークス」の「人体モデル」と、1988年パリの装飾美術館で開催された「ア・ウン」展の「フォルム」は、マネキンと新たな空間の出会いにおいて、展覧会によるファッションの発表形式において歴史的と言って過言でない。この影響は、他のファッションデザイナーやクリエーターにも波及し、マネキンと空間の出会いは、1990年代初頭まで続いた。その代表的な事例として、倉俣史朗による「イッセイ・ミヤケハート」展のメッシュマネキン、「ジャワ更紗」展の木製マネキン、「トキオ・クマガイ」の青銅マネキン、「コムデ・ギャルソン」の紙製マネキン、「コムデ・ギャルソン」と「コムデ・ギャルソントリコ」の半透明マネキン、「ケンゾー展」のワイヤーマネキン、「ツモリ・チサト」の線材マネキン、「イッセイ・ミヤケ ツイスト」展の透明マネキン等が挙げられる。こうした一連のマネキンの制作を担ったのは、大野木啓人を中心とした七彩京都造形室の制作スタッフである。
開放空間とは、ショーウインドやステージ等の見せる場ではなく、人々が存在する同レベルの空間、つまり人々が立っている同じフロアにマネキンを立たせることを意味している。その場合のマネキンのイメージは、身体造形のリアリティは重視しつつ、人間の生々しさを排除することにあった。つまり、ヘアメーク付きのリアルマネキンは対象外とし、多様な素材を駆使して、身体をアート化したのである。さらに、それまで決めポーズ中心であったマネキンの身体造形を、あくまでも自然体としたこともまた、重要な変化であった。自然体マネキンの最初の提唱者は、ファッションデザイナーのヨーガン・レールであり、1984年に自然な立ち姿の日本人体型の婦人マネキンを、ブティックのフロアにシンボリックに配置した。以来20余年が経過したが、現在も尚マネキンは健在である。基本を変えようとしないこの一貫性は、変化の激しいファッション業界にあっては異色の存在と言えよう。
一貫性と言う同じ意味では、毛利臣男は現在も開放空間でマネキンを使用し続けている。前述したイッセイ・ミヤケ以外に、1986年に開催した自らの展覧会「毛利の服」のためにデザインした、透明プラスチック製水槽の頭部を持つマネキンと空間演出。さらには1997年から10年間、東京青山のスパイラルガーデンで開催してきた「モーリの色彩空間」では、一貫して空間演出に欠かせない要素としてマネキンを位置付けた。中でも2001年開催の「小夜子」展では、人形的な可動機構を内蔵した山口小夜子のマネキンをデザインし、ファッション空間演出におけるマネキンの新たな可能性を強く印象付けたことは記憶に新しい。
2.闇の空間のマネキン美 ※
@裸体で佇む時
これまで述べてきたように、都市で見かけるマネキンは、華やかな「光の空間」に存在している。
それが、どのような状態であろうとハレの場に相違ない。しかし、マネキンが古くなり、汚れ破損し、見苦しい姿となり、どう見ても服を引き立たせているとは思えない状態におかれても、それはハレの場と呼ぶに値するだろうか。この問いに対する答えは、服を着て、店頭に置かれている以上、それはハレの場と考えたい。
地方の町の商店街で見かける古色蒼然とした店構えの洋装店に存在しがちな古いマネキンの例を上げるまでもなく、京都の中心街にも、1950年に創業したと言う古い洋品店がある。ショーウインドーで使用されている4体のマネキンの顔は黒ずみ、頭部の皮膚(塗料)は剥がれ痛々しい。照明のない薄暗い場所に、ひっそりと潜んでいるかのような風情だが、真新しい服を着せて貰っていることに幸福感が漂う。しかも、店主は、店の歴史と労苦ともにして来たマネキン達に特別な思いと愛情を注いでおられた。その証として「古いモノを大切にされている。素晴らしいこと」の一言に対する、喜びを隠し切れない表情に表したのである。マネキンに与えられる最高の光はこうした人の思いに他ならない。
マネキンの闇は、裸体で佇む時である。マネキンと関わってきた人々は、裸体のままのマネキンを、赤裸々に見せることを好まなかった。例えば、マネキンの原型が制作されるアトリエ、製品が作られる生産工場、夥しい数のマネキンが佇む倉庫等は、「闇の空間」に他ならない。マネキンの頭部や胴体がバラバラにされて、半ば無造作に放置されている光景、平然と鋸で首や胴体を切断している様子に遭遇した人は、それが人工物と知りつつも、繊細な感性の持ち主であれば「光の空間」におけるそれがまるで嘘のように、異様な光景に映るだろう。
A「生」と「死」
マネキン作家が創造力の限りを尽くして完成させた粘土原型の身体は美しい。手の温もりとタッチが醸し出す粗野な美しさが魅力的だ。但し、粘土原型の状態では、服を着せて見ることが不可能だ。作家は、ボロ布を纏わりつかせて着装感を確かめる。その状態がまた美しい。粘土原型の身体のみが受け入れる衣服だ。粘土原型の「命」は儚い。石膏で型取りされるまでの僅かな時間、アトリエで見ることが出来る束の間の女神である。マネキンは、型から量産される。そのための型取り作業は冷酷なまでに淡々と執り行なわれる。粘土原型は石膏で被われ、すっかり姿を隠してしまう。やがて石膏が硬化し離型すると、粘土が姿を現す。しかし「命」の継承を担うのは石膏雌型であって粘土のそれではない。石膏からとり外された、まだ造形の痕跡が残る、役割を終えた粘土の塊は、無造作に粘土槽に投げ込まれ、次なる女神を生むその時までの間、狭く暗く冷たい空間で過すのである。
マネキンの美を目のあたりにする時、その美しさが生まれる過程で生じる粘土原型の消滅は、それがマネキンを生むための必然の結果であっても、丹精こめて創られた「ひとがた」であるが故にせつない。こうしてマネキンの「生」は、粘土原型のあっけない「死」によってもたらされる。
その後、作家の手を離れ、仕上げ工程に移され、マスター型が完成する。その段階になると、作家の手の痕跡はほぼ失われている。そして、生産型が作られ量産工程に移行する。こうして一つの型から多くの分身が生み出されるのである。倉庫に裸体のまま立ち並ぶ夥しい数のマネキンが醸し出す美しさは、生まれた瞬間から歳をとらずに生き続け、美しい姿のまま消滅して行く、こうした存在の儚さと無関係ではない。
B「体内」は暗い闇
すべて人間によって創造され、人の思いのままに存在し続け、人の思いが途絶えた時、役割を終えるのがマネキンである。しかし、数あるモノの中で、人間に近い姿かたちを表していることから、「生」と「死」に対するイメージは際立っている。マネキンが、煌びやかな衣裳を身にまとい、眩いばかりの照明を浴びながら光輝いて見える時、厚さ3ミリの強化プラスチック製の「皮膚」で被われた「体内」は、人の想いが及ぶことのない暗くて空虚な闇の空間だ。その闇が「皮膚」の表面に浮き出て来る瞬間、即ち人の想いがマネキンに投影されなくなった時、それはマネキンにとって「死」の到来を意味している。「死」を宣告されたマネキンは、化粧されたまま傷つき汚れ疲れ果て、無念の表情を浮かべ始める。そして、着脱可能な腕は外され、時には片脚を外された哀れな姿をさらけ出し、マネキンの「墓場」に積み上げられる。思いを込め完成した瞬間と、「光の空間」を彩った幸福な時が、まるで嘘のようにその末路は無残だ。そして廃棄される瞬間を待つだけの日々を過ごす。その光景に遭遇した人は、そのものが、ひとがたであるが故に衝撃を受けるだろう。
物言わぬマネキンは、人の感性や思いをそのまま写し出す鏡のような存在である。マネキンが輝いて見えるのも、哀れに見えるのも、すべて人間がもたらせた結果に過ぎない。顔が汚れていようが、付け睫毛が剥がれかけていようが、カツラが歪んでいようが、マネキン自体は、不快感を露わにすることなく平然としている。そして、いかなる状態に置かれようとマネキン自体は品格を問われることはない。問われるのは、そのような状態に無神経でいる人間の方なのだ。倉庫と言う「闇の空間」に置かれたマネキンの表情は実に多彩である。
C波乱万丈の「人生」
日本のマネキンの多くは貸し物であるために、商業空間とマネキン倉庫の間をトラックに乗せられて常に行き来している。意思をすべて人に委ねているマネキンは、波乱万丈の「人生」を余儀なくされることが常だ。注文主の思いのままに、肌色、化粧、ヘアスタイルを変えながら流転の日々をおくる。いつも美しい化粧とヘアスタイルが与えられるわけではなく、時には全身黒く塗装されたり、また白塗りされたり、真っ赤にされることも珍しくはない。化粧もなすがままだ。洗い流すことのないマネキンの肌色や化粧は、次々と新しい塗料や絵の具が積層される。売れっ子のマネキンは、幾重にも重なった過去から現在に至る肌色と、幾通りもの化粧された顔を内に秘めている。皮膚が何かの弾みで剥がれると、過去の肌色が現われるのだ。また、強化プラスチック製のマネキンは、堅牢性に優れているとは言え、転倒の状態如何で,かなりの重傷を負うことになる。大抵の傷は補修により再生されるが、マネキンにとっては不幸な出来事に変わりはない。さらに悲劇的なことは、顔が必要ないとされた場合、首から切断され、ヘッドレスマネキンにされることだ。首のない人間が服を着て立っていること自体、絶対にありえないことだが、気味が悪いので取り下げたいとの話は聞いたことがない。さらに、特殊な例だが、少女のマネキンを中性的な少年のマネキンに作り変えるため、胸を削りとったことがあった。その他、脚や腕、顔半分の切断等の人体改造や各種整形手術は日常茶飯事である。こうして見ると、同じ型から作られた同じ姿かたちのマネキンでも、その「人生」は波乱万丈なのだ。
3.歴史的資料としてのマネキン
廃棄することを善しとしたマネキンを、歴史的資料として、七彩が保存することになった経緯は次の通りである。それは、ひとがたをしたモノに恩恵をこうむりながら、不用となれば何の躊躇いもなく、捨ててしまうことへの素朴な疑問にはじまった。かつて行っていたマネキン供養祭も中断して久しく、モノに対する感謝の薄れに、何人かのクリエーターが気付いたのは1980年代後半のことであった。
しかし、不用を有用に転化するには、それなりの意思の結集がなければならない。そのための最も有効な手段と考えたのは、古いマネキンを大切にしょうとする企業姿勢を、社会に知らしめることであった。そこで、新商品発表展示会の会場に、辛うじて保管されていた1950年代の楮製紙製マネキン数体を展覧することにした。来場者に見て貰う以上、綺麗にお色直しする必要があり、技術継承の意味を込めて、以前と同じ素材と製法で修復した。メークも当時の経験者によって行われた。古いマネキンは新品同様に蘇り、輝きを放った。来場者の多くは異口同音に、古いものを大切にする企業姿勢に賞賛の言葉を発した。次の年には、本格的な「マネキンの歴史展」を同じく新商品発表展示会会場で開催する運びとなり、資料マネキンを保存する七彩の姿勢は、広く業界に知れわたり、社内での認知度も高まった。この流れは、前述した写真家ベルナール・フォコンが所蔵していたアンティックなフランス製マネキンのコレクションへと繋がり、1991年の「ベルナール・フォコンマネキン展」、さらには1993年スパイラルガーデンで開催した大規模な「マネキンの歴史展」に結実したのである。現在七彩では、300体近い1980年代までの資料マネキンを保管している。この間、これらのマネキンは、マスコミで紹介されることはもとより、様々な展覧会で活用されている。しかし、最初に歴史的資料マネキン保存の必要を語り合ってから、すでに20年近い歳月が流れた。当時提唱したメンバーはほとんど在籍していない。
それらのマネキン達は、倉庫空間の箱に収納され、時の過ぎるのを見つめるだけの日々を過ごしている。捨てられることはないだろう。さりとて美しい衣裳を身に着け、光の空間で、多くの人々から憧れの視線を投げかけられることもない。行く末にどのような運命が待ち構えているのか、マネキン達は何も知らない。その運命の鍵を握っているのは、他でもない人間なのだ。
4.アート再生・アートマネキン
これまで、役割を終えたマネキン、つまり廃棄対象となったマネキンが近代産業遺産との認識はなかった。なぜならば、遺産と言う以上、不用なままで暫く放置される状態をイメージさせるからである。しかし、マネキンの場合、まるで人間の死にも似て、死が宣告されると、なるべく早く廃棄される。しかし、廃棄されずに、保存されている資料マネキンを見ると、産業遺産との認識が鮮明になる。考えてみれば、ファッション産業の小売の場面で活用されるマネキンは、建造物のスケール感はないが、ひとがたと言う特別な存在感を有する産業遺産なのである。バブル崩壊以降、コストダウンのために人間がリストラされる前にマネキンがリストラされた=産業遺産化された事態は象徴的な出来事だった。リアルな顔がリストラされ、やがて頭部も、腕も脚までも切断された。マネキンのリストラはパーツの切断により進行すると言う残酷さだ。
近代産業遺産アート再生計画の発想は、その遺産をアートの力によって再生を試みようとするものだ。冒頭で述べた1980年代初頭における三宅一生の試みは、明らかに廃棄マネキンのアートによる再生であった。さらに20年後の2000年、108体の廃棄マネキンにより「百八煩悩」を表現した関本徹生のアートマネキンの事例はあまりにも鮮烈である。これを見ると、1938年にパリで開催された「シューリアリスト展」のマネキンアートは、情緒的でファッション的で、インパクトに欠ける印象を抱いてしまう。この作品のシュールさは、マネキンアート史に類例を見ないものだ。マネキンを完全にアートに消化している。奇形的に増殖した身体造形と、痕跡として残る理想化された身体造形の合体、極彩色に輝く皮膚は、大らさ、痛快さ、人間に衝撃をもたらす「アート再生」の名に値する代物だ。捨てられてしまった同じ型のマネキンの運命とのあまりの違いに格別な感慨を抱かざるを得ない。
作っては捨て、作っては壊すことを繰り返してきた近代産業史を振り返り、もののあはれとは何か、自然やモノに対する畏敬の念とは何か、アートの力とは何かを考える機会を、多くの人々に提供するために、近代産業遺産のアート再生計画推進は、極めて今日的な意義を持つ事業と言えよう。
終
※ 2.@〜Cはテーマが同じ、林雅之写真集に寄稿した文章の一部を加筆、修正した。
藤井秀雪プロフィール
1943年京都西陣生まれ。京都市立日吉ヶ丘高校美術工芸課程卒。マネキン・ディスプレイ企業、七彩工芸(現七彩)に44年勤務。2003年京都造形芸術大学教授。空間演出デザイン研究センター主任研究員。比較藝術研究センター研究員。モノ学・感性価値研究会研究員。近代産業遺産アート再生計画学会理事。日本人形玩具学会会員。日本人間工学会関西支部会員。京都造形芸術大学人形研究会研究メンバー。主な研究テーマは「マネキンの歴史研究」「モノの生態研究」「伝統産業の現代生活適合化研究」
|