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■「追浜幻影 〜亡父の足跡を訪ねる旅のスタートとして〜」

堀越地域計画研究室主宰 堀越久代



●予科練生だった父の思い出ツアーを開始
 先の戦争が厳しくなった頃、亡父は、「赤紙を待つくらいなら志願して」予科練に入り、17歳の時、天理(三重海軍航空隊の支所)で終戦を迎えた。予科練時代、最も長く居たのは霞ヶ浦(土浦海軍航空隊)だが、横須賀にも短期間いたと言っていたように憶えている。
 父は、予科練時代のことをほとんど語ることなく世を去ったが、死の前日、図らずして予科練の話が出たとき、父の瞳が一瞬だけ少年のように輝いたように見えた。思い出したくないはずの予科練は、終生を自動車製造業の中で過ごした父の人生を規定するものでもあったはずである。予科練時代、父はどこでどんな空を見上げ、どんな生活をしていたのだろう。私は予科練生として過ごした少年時代の父に出会う旅に出ることにした。

 貝山緑地*1は、葉の厚い常緑樹で覆われ、シンと静まっていた。
 入口の車止めを入るとすぐ、右手に「追浜神社」という石碑があることに気がつく。歩道は舗装されており、沿道には低木が植えられ、人の手で手入れされている様子がわかる。アジサイや木イチゴなどが、花の時期を前に葉をたわわに繁られている。 前方から、高齢な紳士と20歳前後の青年の二人連れが、静かに坂を下ってきた。家族か戦友のいる碑を訪れたのだろうか。青年は、車の運転で祖父に同行したのだろうか、それとも、世代を超えて往時のことを語り継ぐために老人が若者を誘ったのだろうか。交わす声も聴こえない。二人とすれ違ったあと、静粛な空気だけが残された。 上り坂は右に大きくカーブし、そのカーブが終わらないまま、右手に石碑が見えた。まだ細い杏の樹立ちが碑を囲んでいる。地元住民の想いのこもった記念樹である。
碑には「国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛*2発祥の地横須賀に、この碑を建立する。平成九年十一月二日  甲飛生存者有志 遺族、一般賛同者有志」と刻まれている。平成9年といえば、ほんのひと昔前である。戦争に青春を捧げた若者のことを忘れない、忘れられない人々がまだいるという事実が、静かな貝山の風景に体温と鼓動を与えた。
 碑文の中には、散華した一人が残した辞世の句も刻まれている。
 血潮もて茜と染むも悔ゆるなし 雲の墓標の空の御楯は
 年若い青年の句としては、あまりにも気高く、昇華しきっている。碑は、あくまでも静かに建ちながら、若い両肩に国家を背負い、空の中に死に逝く己を歌に留めた若者が確かにいたこと、その存在とその想いを、熱く伝えている。 丘上には展望台が整備されていた。のぼってみると、日産自動車追浜工場をはじめとする工場群が目近かにみえる。施設は新旧様々で、数十年以上の時を刻んでいるように見えるものも少なくない。このうちのどこかに、戦中をくぐりぬけてきたものもあるのだろうか。初夏の夕暮れ前、湿度の高い濃密な感じの空気の中で、現在の産業を支える工場群が重そうな体を横たえている。 その中に歴史の入口があるのかどうか、行ってみないとわからない。

●若者が作業に没頭する場所 〜日産自動車追浜工場にて〜
 貝山緑地のアジサイは、もう散ってしまっただろう。7月のある日、日産自動車追浜工場の工場見学参加を実行することにした。
 追浜工場のウェブページで工場見学の予定表を確認すると、7〜8月の日程は既に随分埋まりつつあった。団体向けがメインのようだが、個人向けの日もあり、2人から受け付けるという。電話で確認すると、空いていれば1人でも受け付けてくれるという。私は、早速直近の個人見学日を申し込んだ。その際、再び予科練関連の施設があるかどうか、見学の際に案内してもらえるかどうか訊ねてみた。
 電話口の若い女性は、丁寧な応対で、あくまで生産現場の見学がメインであり、史跡の案内はあまりしていない、施設のことは総務課に問い合わせたらどうかと提案してくれた。総務課に電話すると、電話口に出たのは若い男性だった。
 趣旨を伝えると、「すみません、予科練とは何ですか」と逆に訊ねられた。特攻隊というとわかったようだが、予科練という言葉は知らないという若者も増えてきていることだろう。日本海軍関係の施設があるかという問いに対しては、総合研究所内の施設で、内装こそ一新しているが、外見は当時のままに残している建物があるという。しかし、見学対象施設ではないとのことであった。

 工場見学当日は、快晴の暑い日となった。道に迷ったおかげで若干遅れて説明会場に入ると、30人程度の人で埋まっていた。ネクタイ姿のサラリーマン風の姿が目立つが、1組、10代の少年と両親というファミリー客もいる。企業と追浜工場の概要について説明を受けたあと、バスで工場見学の現場に向かった。
 バスに乗り込む前、担当の女性が私に近づき、お父様の足跡を訪ねていると聞いているが、十分な案内ができず申し訳ないと耳打ちしてくれた。そういえば、申込みのメールに、見学の趣旨を記入していたのだ。丁寧な対応に痛み入った。
 工場施設は広大で、見学対応の施設には、大型バスで向かう。バスから、敷地内の風景を楽しんでいるうちに、茶色いかまぼこ型、またはブッシュ・ド・ノエルの尾根をちょっと尖らせたような、縦横10数メートル、高さ3〜4メートルほどに見えるドーム型の建物が1つ、間近かに出現した。「特攻機の格納庫とも言われている」とのアナウンスに、この光景を忘れじと目を凝らすと、ボディを覆う屋根は一面さびっぽく、入口付近のガラス窓は若干破損している。下から1.5メートル小さな庇付きの小窓が横一列に並んでいるが、ガラスは風雨に汚れて曇っており、漏れる明かりはない。中に人影はないようである。しかし、今も倉庫として現役の施設だという。見学後、説明担当者に今後の保存について訊ねたところ、はっきりした方針はないが「市からも保存の要請あるし、解体にも費用がかかるので、当分そのまま」になるだろうとのことであった。
バスは、若干徐行し、一瞬止まってくれたように感じた。若かりし父も、これと同じような施設を出入りしていたのだろうか。いずれにしろ、この光景を忘れてはならないと自分に言い聞かせた。

 見学コースは、小型車の最終組み立て工場に設けられていて、案内係の女性が、手際よく誘導、説明してくれる。日産は、「同期生産システム」というのを開発し、注文から約20日で納車できるのだという。1台の乗用車は、2〜3万個の部品からできており、その7割がアウトソーシングされているという。下請け、関連工場による部品生産、部分組み立ても含め、全て同期生産システムに必要な管理下に置かれ、人間工学に基づく工程管理、労務管理が行われている。最終組み立て工場では、別々のラインでコックピット、車体部分、ドア部分を組み立て、最後に全ての組み立てを行って、テストマシン上での走行テストまで行って工場を巣立つ。最終組み立てでは、かつての火花を散らせて溶接していた風景は全く見えず、ほとんど全てが、電動ねじ回し1本で作業されていく。
 工場内の部品搬送、コックピットの取り付け等では、産業用ロボットが活躍しており、力仕事の必要はない。但し、誰もがきびきびと、淀みなく作業しながらベルトコンベアと立ち向かっており、気が抜けない。作業担当者は、ほとんどが若者で、年長者が、作業管理とヘルプのために配置されている。この光景を、輸送機器の製造作業に生涯を捧げた父がみたら、どんな感想を持つだろうか。「おもちゃの組み立てみてえだな」と面白がるだろうか。
 それにしても、若者たちはキビキビと手を動かしている。もしかしたら、目の前の作業に黙々と立ち向かう若者たちの姿は、今も昔も変わっていないのではないか。戦争という不条理に押し流され、死を常に意識しながら、あるいは意識していたからこそ、若者たちは、目の前の作業に没頭していたのではないか。日産工場の若者たちの、小ざっぱりとした制服姿を眩しく眺めながら、私は、ふとそんなことを感じた。
外には、広大なモータープールと、欧米輸出用の大型船舶と、九州方面と往復する国内搬送用の中型船舶が待機している。戦後、米軍の大量のジープを積みだしたその港で、今は、環境に優しいと銘打つ乗用車が、輝く姿を陽に晒し、出荷の時を待っていた。

●軍の壮大な土地利用 〜横須賀のインディージョーンズとともにフィールドを行く〜
 日産追浜工場の総務課の若者は、私に貴重な情報を伝えてくれていた。追浜行政センターの青木館長が、海軍史跡関係の情報に詳しいというのである。
 早速、追浜行政センターに電話して、館長とお話させていただいた。電話だけでもたっぷり1時間、追浜の海軍、予科練史について、こちらの質問を超える壮大な歴史が紐解かれはじめた。資料もあるし、その当時の食器などもある、壕の一部も案内しよう、何時間か時間がとれる時にいらっしゃいと言ってくださった。勿論、私は二つ返事である。
 館長の話、否、青木館長という人物と出会ったことは、期待を大きく超越した。否、期待すらしていなかった世界への扉を開ける大いなる機会となった。忘れもしない平成21(2009)年7月、青木館長を訪れたその日は、父の青春時代への旅、そして、戦争という異常な状況の中で育まれた日本の産業史(というと大げさであるが、そのダイナミズムを感じる)への旅の、本格的な幕開けになったといえる。
 私は、晴れ女である(数多い出張旅行の中で、私が傘をさす機会は、ほんの2〜3回であった)。その私が、貝山緑地に行く時は、何故か2度とも雨が降った。空には低く雲が立ち込め、辺りは静かである。あたかも、魂を冷やし、心を鎮めて向き合えと言われているように。

 青木館長は、最初に、館長室で様々な地図や写真を示しながらレクチャーしてくださった。館長の室内には、軍関係をはじめ、追浜の歴史を伝える様々な写真や物品が飾られている。気がつかなかったが、追浜行政センター入口脇にはガラスの展示棚があり、壕で発見されたという海軍の食器、飯盒、防毒マスク等が並べられている。食器類には、海軍の錨マークがプリントされている。錨マークは何種類かあるが、青木館長にもその意味はわからないらしい。確か、父の予科練時代の写真も、シャッポ帽に海軍のマークがついていたように記憶している。それがこれらと同じなのかどうかは、まだ確認していない。
 館長の説明は、この辺り一帯がまだ軍事利用される前の古い地図、昭和のはじめ海軍航空基地として整備された頃の地図、そして、第二次世界大戦中(又は戦後すぐ)の地図に沿い、多岐に及んだ。どれも刺激的な話で、私は、父がいつそこにいて、何をしていたかという疑問そっちのけで話に聞き入った。

 2時間ほどレクチャーを受けた後、青木館長は、自ら現地を案内してくださった。カウボーイハットに長靴を身につけ、サーチライト2丁と、長い草刈り鎌を持参されている。まさに、インディージョーンズそのものである(何だか、顔までハリスン・フォードのように見えてきた)。
 まず、今も残る海軍時代の建造物を案内してくださった。全て民間の工場用地の中にあり、現在も何らかの形で活用されているものがほとんどで、近くで外観を眺めることしか叶わないが、一面に蔦を這わせた建物、瀟洒なダンスホールだったという施設、海軍航空技術廠本庁舎跡地の説明版等々、どれも威風堂々としている。

 続いて、貝山、夏島の壕を案内していただいた。夏島、貝山の地下は、いずれも海軍「壕」施設となっている。日本の軍施設は、敗戦後米軍に接収された。その際に武装解除され、プロペラを外した戦闘機等が一斉に整理されている。接収までの短期間で、日本軍側が急いで機密に関わる事物、資料を破棄したものと思われる。壕施設は、機密中の機密であったのではないか。中を極力空っぽにし、破棄しきれない部分はコンクリートや鉄の扉で固く閉ざされ、放置された。その後は、あたかも棘姫の城のように草木に覆われるに任せ、今日に至っている。近年、館長をはじめとする地元の調査団体により少しずつ構造解明の検討や現場調査が進められているが、未踏のエリアがまだ広がっているという。
 まず、外回りからでも確認できる出入り口などをめぐる。閉ざされたエリアには、物資貯蔵庫群らしきものもあるとのことで、ミステリアスである。夏島は、国のエリアとのことで簡単に踏み入ることはできないが、貝山の方は、浄化センターや関連民間事業所の敷地を通り、中に入れる箇所がある。本日は、見学者があることを予め連絡して立ち入っているが、くれぐれも無断で立ち入ることのないよう釘をさされた。治安上、また、放っておくとすぐに藪に覆われてしまうとのことで(この日も一部伸びた蔓などをかき分けた)、時折人が入ってメンテナンスしているらしく、内部はからんと片付いている(一部は日を限って一般公開したこともあるとのことである)。
 インディージョーンズさながらの青木館長につき従って壕の中に踏み入ると、中はひんやりしていて真っ暗で、館長持参のサーチライトが大活躍することとなった。過去の正確な見取り図が発見されていないので、何に使われていたのかはわからないとのことであるが、生活感あるかまど、煙突、会議室、研究施設、貯蔵庫等々を備えた複合的・総合的な施設であることは間違いない(近くの鉈切山の下には総合病院機能が移転していたとの記録もある)。追浜行政センターに陳列してある食器等は、インディージョーンズ一派が、ここから掘り出した宝の一部だったのだ。
 夏島には、飛行場(現試験ドライブコース)に向けて飛行機の格納庫である地下掩たい壕が口を開けていた。その奥に控える貝山は、航空技術研究所や本庁舎を隠すような位置づけにあり、頂には気象観測所もあったらしい。私見であるが、これらの壕施設は、陸上施設が爆破されても、管制、指揮命令、整備、技術開発等の重要な機能を維持できるよう、つくられたのかもしれない。夏島、貝山とも、丘というより、巨大な建物ととらえた方が理解しやすい。
 貝山、夏島、金沢区側にある野島、海に隣接するそのトライアングルは、飛行場や軍施設の配置上、大いに意識されたに違いない。貝山には、明治時代に築かれた砲台を壊した跡の赤レンガ等が今も残っている。野島も何らかの利用がされていたに違いない。その向こうには、小柴の荒い瀬があり、長浜には今も米軍基地が鎮座している。その向こうには旧富岡飛行場があった(今も日本飛行機が立地している)。湾奥部の首都は、このような重装備で守られていたのだ。軍機能は、所与の地形を上手く利用しながら、絶妙に設計されていた。そして、よく見ると、現在の産業施設は、その跡を無駄なく活用する形で配置されており、その技術と人も、生きながら今に引き継がれてきたのである。




【写真】横須賀市深浦地区にある旧海軍航空技術廠施設の一部。
現在は、いずれも民間事業所の所有となっている。(2009.07.20.筆者撮影)

 三浦半島が、房総半島とともに、首都圏を守る要塞であった(ある)ことは周知の事実で、砲台や弾薬庫等の跡が残っていることは有名であるが、第二次世界大戦時代の名残が、今も生きた形で引き継がれていることを知る人はどのくらいいるだろうか。
 海軍航空隊の主要エリアは、追浜だけでなく、私の住む金沢区にも及んでいる。例えば、関東学院大学は、高度な知識・技術を習得するための航空技術廠教習所・養成所となっていた。東急車両で新幹線が造られることになったのは、生きて戻ってくる戦闘機として開発されたジェット戦闘機の製造技術が、この地に根付いたからと聞く。現在は日産工場となっている一帯は、朝鮮戦争の際の特需として、進駐軍の壊されたジープの整備工場となり、富士自動車が修理に従事していました。日産自動車追浜工場には、予科練出身者も含まれていると聞いた。「家主」が変わっても、輸送機製造技術とそれを担っていた人々は、今も生きているのである。視野を広げると、愛知、群馬、茨城ほか、自動車産業で発展した地域には、かつて軍基地と技術の集積があった。父が、横須賀にいついたのか、どんな訓練又は仕事をしたのかはわからない。しかし、海軍という巨大組織の下で、規律ある生活をし、技術を磨いてきたことは確かである。戦争状態から生還した多くの若者たちが、その後の産業技術を下支えしてきたのである。
 貝山の壕には、まだ生々しい彫り跡が残されている。多くの少年兵や学徒たちが、壕掘りに駆り出されたのではないか。少年たちは、自らの明日ではなく、国の明日のために戦時下を生きた。私の父は、14〜5歳の時、「どうせ赤紙が来るのなら、それを待つより自分から志願しよう」と思い立ったという。予科練生の多くが志願者であった。自らが選んだ軍での生活と訓練に、皆没頭したに違いない(箸の上げ下げ、洗濯物のたたみ方、道具の手入れ等々、父の振る舞いには終世、軍隊式と思われる規律正しさが残っていた)。その従順さ、真摯さで、少年たちは、技術を修得し、壕を掘ったのではないか。その先に何があるとも考えず、とにかく、そこにある課題を我武者羅にこなす日々だったのではないか。私の脳裏に、日産自動車追浜工場で見た若い従業員の働く姿が一瞬よみがえった。

●追浜の幻影に想う
 戦争は、絶対悪であると思う。しかし、その中で多くの研究者、技術者が明日を拓く技術を拓き、多くの若者たちがそれを形にするための作業に従事してきた。その真摯な青春の毎日の先に、現在の日本の産業技術の基礎が築かれてきたことも事実である。
 現在の産業立地も、大いにその足跡に既定されているのである。その事実は、現代日本の産業技術、土地利用の礎を考える時に無視することはできない。私たちはその隣に暮らし、生活や仕事の様々な面で、その恩恵、その影響のもとにあるのである。
しかし、その姿は意図的(政治的強者は塗り替え、政治的弱者は忘れようとする)に時のベールにかき消され、白日の下で語られることを恐れているうちに、加速度的に人々の意識の中から消え去ろうとする。
 ところが、土地にはその存在を知らせるヒントが溢れている。そのことに気がつくと、今ここにある平和な工場地帯の上に、ありし日の幻影・・・当時の若者たちが、日々の作業に没頭してきた姿とその現場・・・が、私たちの脳を借りてカムバックするのである。
彼らに降り注いだ陽の光、天井の雲、陸上に濃密な湿度を与える海のきらめき、昼夜を問わずに響いていたプロペラ機の爆音、震える翼、燃料の臭い、掘りかけの地下壕の土の臭い、土曜日のランチのカレーの臭い・・・が、圧倒的な質量をもって私たちの脳裏に鮮やかに蘇るのだ。
 その姿を忘れてはならない。私たちは、あらゆるイデオロギーや欲望、懺悔とはまた別の次元で、この事実を受け止め、明日への力にしていく必要があるのではないか。それは、国のために死んでいった多くの若者たちが生きた証を伝えることにもなる。
 その姿を追い求めてはならない。私たちは、戦争という悲しい理由で、若者たちのエネルギーをかき集めてはならない。軍組織というあだ花が、我が国の産業技術の礎となり、高度経済成長の梃となった。その頃の技術者のほとんどは、既に産業社会から引退し、次の世代も一斉にシニアとなりつつある。優秀な若者が予科練を知らない時代である。
 私たちは、戦争とは異なる手法で、明日を拓くエネルギーを結集していくべき時代を迎えているのではないだろうか。地球環境問題、混迷する社会経済の中で、明日を拓く希望を形にしていくため、若者たちが、日々自らの力を伸ばすことに没頭できるような環境をつくれるだろうか。しかも、戦争とは真逆な平和的手法で。
 追浜に広がる工業地帯、それを覆うまだ生々しい戦時の幻影を眺めながら、私の目はいつしか空へと向けられた。空に散った若者が「墓標」と詠った雲が、静かに流れていた。

*1:貝山緑地
横須賀市浦郷5丁目にある。旧海軍が残した丘陵。横須賀市経済部観光課は「横須賀ロケサービス」というウェブページの中で「海軍航空隊発祥の地碑・海軍飛行予科練習生発祥の地碑がある」と紹介している。

*2:甲飛
甲種飛行予科練習生の略。海軍飛行予科練習生(予科練)の制度は、昭和5年(1930年)に創設され、高等小学校を卒業した満14歳以上20歳未満で厳しい試験に合格した者が採用され中堅幹部育成の教育を受けた(後の乙飛)。昭和12年(1937年)、さらなる搭乗員育成のため旧制中学校4学年1学期予期修了以上(後に3学年修了程度)の学力を有する満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設け、前記練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)、操縦練習生は丙種飛行予科練習生(丙飛)に改めた。昭和18年(1943年)から戦局の悪化に伴い乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。

【参考文献】
横須賀市「横須賀市史上巻」(昭和63年)、第8編昭和時代の横須賀T
追浜地域文化振興懇談会「ふるさと追浜写真集」(平成13年)
横須賀市「目で見るよこすか100年」(市制75周年記念アルバム)
石井明・神奈川新聞社「ふるさと横須賀(下)」(昭和62年)
横須賀海軍工廠会「横須賀海軍工廠外史」(平成3年)
海軍飛行科豫備学生・生徒史刊行会「海軍飛行科豫備学生・生徒史」(昭和63年)
その他、神奈川県、横須賀市ホームページを参照した。


 本文は、横須賀市追浜行政センター館長青木猛様の監修により、上記以外の資料及び現場検証に立脚した事実関係の精査、用語使用の正確さを得ることができた。
 また、日産自動車追浜工場にも、ゲストルーム遠山様を介してご確認いただいた。
 ご協力いただいたすべての皆様、亡き父に感謝する。