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近代産業遺産アート再生学会設立に向けて
「モノ学の構築をめざして――“もののあはれ”から“もののけ”、“ものづくり”までを貫流する、日本文明のモノ的想像力=創造力を探る摩訶不思議アートツーリズムへの期待と構想」
1、「妖怪談義」から「摩訶不思議アートツーリズム」へ
最近、「妖怪」が元気だ。Yahoo!で「妖怪」を検索してみると、約1000万の項目件数がある。「八百万の神々」の数より多い。実に活性化しているのだ。全国各地でも「妖怪」を素材とキーワードに町興しや商店街のイベントが盛況だ。なんと面白いご時世ではないか。
2005年7月、荒俣宏原作の角川映画「妖怪大戦争」が封切りになり、まずまずのヒットだった。同じ頃、東北地方の山形市山寺芭蕉記念館で、「もののけ博覧会――妖怪の表現、その歴史と美術」が開催され、近年にない集客だった。その少し前、東京では「新<妖怪談義>研究会」(東京財団主催)が始まり、わたしが座長になって、知る人ぞ知る妖怪研究家の面々とスリリングな「妖怪談義」に興じている。
そのような中、11月19日、諸星大二郎の「生命の木」(『妖怪ハンター』シリーズ所収)が原作の「奇談」が封切りになった。エデンの園の中央に立っている「生命の木」の実を食べて不死身となった“じゅすへる”(ルシファー)の子孫が東北地方で隠れキリシタンとなっていて、「世界開始の科(とが)の御伝え」という独自の“きりんと”(キリスト)再臨信仰を信じている。そして、7歳になった子供が「神隠し」になってその集落に紛れ込む。面白いことに、「神隠し」なるのはなぜか、「7歳」の子供だけなのである。
さて、アカデミー賞を受賞した「千と千尋の神隠し」には、「神隠し」になる親子が描かれていた。しかし、そこには「神隠し」の“怪異”や“摩訶不思議”や“怖さ”は描かれておらず、わたしはその点で大いに不満だった。だが、この「奇談」には「神隠し」の“怖さ”が描かれている。その不気味な問いは、わたしたちを深いところから摩訶不思議な戦慄的世界に導き入れる。
いったい、今日、世界は「妖怪化」しているのだろうか? そして今の世にも「神隠し」はあるのだろうか? 然り! とわたしは答えたい。単純なオカルト趣味でも好事家的韜晦でもなく、「摩訶不思議」が存在する、と言いたいのである。
わが新<妖怪談>義研究会の「御神体」である舞踏家の麿赤兒氏は、29歳の時に啓示を得て舞踏集団「大駱駝鑑」を結成し、土方巽の暗黒舞踏をさらに発展させて独特の演舞形式「天賦典式」を創案した実に妖怪的な人であるが、その麿氏は研究会の席上、「変なものを生んだ力、妖怪Xをね、呼び出すんだ。怪異、異形、化け物でもいい。神さまにも化け物にもはたらいていただいて、何でも取り込む。近代になって、化け物の依り代がなくなった。そこで、『天賦典式』を行う。すると、いろいろなカミさまが来る!」とのたまった。まさに、妖怪呼び屋である。その麿氏が率いる舞踏集団大駱駝鑑は、12月16・17・18日の3日間、世田谷パブリックシアターで天賦典式「AMA-ZONE」を演舞する。
戦後日本社会の第一次妖怪ブームの火付け役は、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげる氏だった。氏はかつて「電灯がついて暗闇がなくなると、妖怪もいなくなった」と語っていた。実際、戦後の高度経済成長時代はそのように見えた。生活合理化運動は「妖怪」の居場所と時間を奪ってしまったかに。そのような中、水木しげる氏や楳図かずお氏が「妖怪」や怪異の時空間をひそやかに護りつづけ、表現しつづけた。その功績や大である。
そして21世紀初頭の今日、煌々と電気が輝き、暗闇が無くなったにもかかわらず、「妖怪」がふたたび跋扈し始めている。人気アニメ集団スタジオ・ジブリの宮崎駿監督の大ヒット作「風の谷のナウシカ」も「となりのトトロ」も「もののけ姫」も「千と千尋の神隠し」もみな妖怪・怪異の物語であった。またこの10年ほど大流行の「ハリーポッター」シリーズも、キリスト教以前のケルト的怪異譚や魔術・魔女文化の復活と見ることができる。
現代におけるこの「妖精・妖怪・魔術ブーム」は何なのか。妖精や妖怪に関する本が相次いで出版され、日本における妖精研究の開拓者・井村君江氏は「妖精学」という研究分野を確立した。井村氏は福島県金山町や栃木県宇都宮市に妖精美術館を開設し、フェアリー協会を主宰するとともに、水木しげる氏と協力して世界ゴブリン会議も開催した。また、国際日本文化研究センターの小松和彦教授が主宰する「妖怪・怪異ホームページ」も大人気だ。わたしの周辺でも、友人・知人たちが「妖怪プロジェクト」なる怪しげなグループを作り、夜な夜な妖怪探しにいそしみ、各地の妖怪祭りに参加して妖怪パフォーマンスを繰り広げている。
いったい、この盛り上がりは何なのだろうか。これはいったいどういう「風」の吹き回しか。妖精や妖怪の仕業か、はたまた単なる現代人の願望の表出にすぎないのか。この妖怪・怪異譚大流行は、現代世界の社会不安を反映しているのだろうか。
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わり、「心の世紀」が来ると予測した人が多くいた。確かに、大学では心理学や精神医学が大流行りで、精神科医の斎藤環氏が指摘するように社会全体が「心理学化」している。
しかしそれは、心の荒廃や崩壊が後戻りがきかないほど急速に進行している事態をも意味している。産業界のリストラが進む中で、年間3万人を超える自殺者が出、離婚も凶悪犯罪も増えている。会社にも家庭にも学校にも心の休まる場所はない。世界がまるで戦場のようである。
実際、オウム真理教事件や9・11同時多発テロ、イラク戦を始め、世界全体が妖魔化しているように見える。そのような不確定の混沌の時代にあって、新たな「妖怪・怪異学」の探究に分け入ってみることには大きな深い意味があるのではないか。
かつて柳田國男は『妖怪談義』(昭和31年)の「自序」の末文を次のように締めくくった。「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまの文化を借りておりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、又は幽霊などというものの本質を、解説することはできぬように思います。国が自ら識る能力を具える日を、気永く待っているより他はないようであります」と。
確かに、柳田が創始した日本民俗学は、「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形」を明らかなしようとする企図を持ち、柳田の協力者の折口信夫もその試みに大きな貢献をした。しかし今や、「国が自ら識る能力を備える日を、気永く待っている」なんていう、悠長なことは言っていられないのだ。われわれ自身が「自ら識る能力を備える」ことを修練する必要があるのだ。それゆえわたしにとっての「摩訶不思議アートツーリズム分科会」とは、聖地、異界、魔界、神々、妖怪、怪異、霊的存在など、ありとあらゆる「畏怖」と「摩訶不思議」を“芸術”という切り口から探究し、この百鬼夜行的な乱世の現代社会を逞しく生き抜いていく「アート=ワザヲギ」と創造性の開発となる。心が不安で不安定であればあるほど、それを逆手にとって、ユーモアや笑いを忘れずにその不安の只中を創造的に突き抜けていきたいと思うのである。
2、「もののけ」と「もののあはれ」のさらなる深みへ
その「摩訶不思議アートツーリズム」探究の基盤を精神史的背景を概観しておきたい。日本で本格的に摩訶不思議や妖怪・怪異を研究対象としたのは、大阪出身の上田秋成と秋田出身の平田篤胤という二人の国学者であった。
上田秋成は『雨月物語』という妖怪・怪異物語を刊行するが、その冒頭を飾る「白峰」は、怨霊との霊的対話篇といえる、実にシリアスな怪異譚である。保元の乱で讃岐に流され「魔王」となった崇徳上皇の墓所に詣でた西行は、今や「龍体」の姿を持った「魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに堪ず」、鎮魂の思いを胸に、問答・対話の果てに、やむにやまれず歌を詠む。この崇徳上皇の霊と西行法師の二人の霊的対話は、妥協なき緊迫感に溢れる対決的な対話として描かれており、最後に西行法師が歌を以って上皇の霊を鎮撫する。そこには、歌こそが人の心と霊を慰め、静め、鎮魂するという、歌謡の力への信と願がある。
上田秋成が描出するこの怪異譚と純粋に日本的なるものを探究しようとした国学研究とはいったいどのようなつながりがあるのだろうか。秋成にとっては、古典日本の世界とその研究は「もののあはれを知る」という情趣の次元に収まるものではなかった。むしろ、そこには人間の理性でも感情でも推し量ることのできない、「もののけの怖さを知る」怪異次元が開かれていた。秋成はその思議を超えた摩訶不思議な根源的な認知の次元において、神や妖怪や怪異現象の合理的解釈を排した。
だからこそ、秋成は『胆大小心録』で、「儒者と云人も、又一僻になりて、妖恠はなき事なりとて、翁が幽霊物語したを、終りて後に恥かしめられし也。(中略)狐も狸も人につく事、見る見る多し。またきつねでも何でも、人にまさるは渠(かれ)が天稟也。さて善悪邪正なきが性(さが)也。我によきは守り、我にあしきは祟る也。(中略)神といふも同じやうに思はるゝ也。よく信ずる者には幸ひをあたへ、怠ればたゝる所を思へ」と述べたのだ。
つまり、「妖怪」現象を否定する儒者の合理性や「善悪邪正」を判断する道徳律を以ってしてはわが国の「神」も「幽霊」も憑物のこともよくわからない。狐も狸も「人に憑く」ことがあるし、それは自分にとって「よき」ものを守り、「あしき」ものに祟る行動である。神もその点では同じで、仏陀や聖人のような、善悪邪正という人間原理とは違う次元の中にあると秋成は考えているのだ。むしろそれは動物原理とも生物原理ともいえるような次元での行動であり現象なのであると。
一方、秋成より少し後に活躍した平田篤胤は、主著『霊の真柱』の冒頭で、大和心を固めるためには死後の霊魂の行方を知らなければならないとし、幽冥界すなわち霊的世界の研究に精力を注いだ。そして、『新鬼神論』『古今妖魅考』『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』『稲生物怪録』などの心霊・妖怪研究書を矢継ぎ早に出版した。篤胤にとっては、妖怪探しは神々と霊的世界の研究に不可欠の回路だった。つまり、妖怪の存在証明はそのまま神および幽冥界の存在証明と連動していたのである。とすれば、妖怪学は神学とも宇宙論(異次元世界論を含む)とも連結することになり、篤胤はまさにそのような霊的存在論の探究に赴いたのだ。
文政3年(1820)の秋、45歳の篤胤は天狗界に出入りするという仙童寅吉と呼ばれる江戸市中で評判の15歳の少年と出会い、初対面の場で、いきなり「神の道を学ぶは善き事か悪き事か」と問うている。いったい何人もの門弟を持つひとかどの神道学者が未だ年端の行かない少年にこんな問いかけをするだろうか。
平田篤胤の著作『仙境異聞』によると、この時「眼光人を射るといふ如く、光ありて面貌すべて異相」の寅吉は篤胤に向かって「あなたは神様なり!」と再三語ったという。この親子ほども年の異なる二人の会話はいささか滑稽でありかつ異様である。別の言い方をすれば、篤胤はそれほど異界に関心を持ち、その実在の実証を希求していたということだ。だからこそ、篤胤は筑波山の天狗界に戻るという寅吉に、自分の主著である『霊の真柱』と『神代文字の考』を持たせて批評を乞うたのである。次のような書簡とともに。
「拙子儀(篤胤のこと)は、天神地祗の古道を学び明らめ、普く世に説き弘め度念願にて、不肖ながら先師本居翁(宣長のこと)の志をつぎ、多年その学問に酷苦出情いたし罷在候。併ながら現世凡夫の身としては幽界の窺ひ弁へがたく、疑惑にわたり候事ども数多これあり難渋仕候間、此以後は御境へ相願ひ御教誨を受け候て疑惑を晴し度奉存候」。
篤胤は寅吉の師匠である杉山山人に対して、自分の問いに「ご教示」をいただけるならば、わたしは生涯の間毎月あなたを祭り勤行して仕えますと手紙にしたため、自作本を謹呈し、「貴境の電覧」を得たいと申し出、間違った解釈も多々あるだろうと恐縮するのである。興味深いのは、この手紙の宛先が「常陸国岩間山幽界/雙岳山人御侍車衆中」となっている点だ。そしてこの時篤胤は、「寅吉が山にし入らば幽世の、知らえぬ道を誰かに問はむ」「神の道に惜くこそあれ然もなくは、さしもの命のをしけくもなし」などの5首の歌を寅吉に詠み与えている。こうして、幽冥界の探究こそが「神の道」の探究であり、それに命を賭ける自己の決意が表明されるのである。
『仙境異聞』の最後には寅吉の語った次のような言葉が記されている。しかしそれは15歳の少年が語った言葉とは思えない。むしろそれは篤胤自身の学問観の表出だったのだろう。「すべて学問といふものは、魔道に引込るゝ事にて、まづは宜からぬ事なり。其故は学問するほど善き事は無れども、真の道理の至極まで、学び至る人はなく、大概は生学問をして、書物を沢山に知て居る事を鼻にかけて、書物を知らぬ人を見下し、神はなき物じやの、仙人天狗はなき物じやの、怪しき事はないの、然やうの道理はない事じやなど云ひて、我意を張るが、これみな生学問の高慢にて、心狭き故なり。書物に記して有る事にも、直に見ては、違て居る事はいくらもあり」。
篤胤は、学問的合理性は意に反して現象を現象として捉えるよりも、知的操作の“なまさかしら”に陥って、半端な解釈や従来の知的枠組みの中で囲い込んでいく「生学問」の問題点を痛烈に批判する。そういう「生学問」をする人は神も仙人も天狗も存在しないと否定し、「怪しき事はない」とかと言って怪異現象を否定するが、それは「生学問の高慢」というものであり、摩訶不思議現象に素直に立ち向かおうとしない「心狭き」態度である。こうして篤胤はブッキッシュな知的さかしらの「生学問」を徹底批判し、真の実証的な学問としての神学=幽冥学、すなわち「もののけを知る」学問を切り拓いていったのだ。
この平田篤胤の妖怪や幽冥界研究は、民俗学の成立にも深い影響を与えている。実際、柳田國男の『遠野物語』は「神隠し」などのほとんど「幽明」境伝承といってもいいし、常世から来訪する、折口信夫の所謂「まれびと」も神々や妖怪や人間と境を接する霊的かつ人間的存在である。
柳田は『遠野物語』の中で、「旧家にはザシキワラシといふ神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童子なり。折々人に姿を見することあり」と書き記し、座敷童子を目撃した人々のいたことを仄めかしている。また折口信夫は、「神々と民俗」の中で、「もののけ」を「庶物崇拝の対象」となる「小さな神」とか、気の知れない「恐ろしい霊物」とし、また「ものゝけ其他」において、「『ものゝけ』と言ふ語は、霊(モノ)の(ノ)病(ケ)の意味であつた。ものは霊(モノ)であり、神に似て階級低い、庶物の精霊を指した語である。さうした低級な精霊が、人の身に這入つた為におこるわづらひが、霊之疾(モノノケ)である。後には霊疾の元をなす霊魂其物を、ぢかにものゝけとばかり言ふ様になり、それを人間の霊と考へた」と述べ、「モノノケ」観の変遷について推論している。
また折口信夫は、「平田国学の伝統」と題した講演の中で、「篤胤先生が、仙童寅吉、生れ替り勝五郎を担ぎ上げてゐたのと同じものを、われわれがしてゐるのだといふ気がして、やつと或る喜びに達した」と述べているが、これを見ても、平田篤胤が民俗学の地平を切り拓く先駆者的な役割を果たしたことがわかる。平田国学はただ「霊魂の行方」を抽象的な神学的観念論や解釈学に収束させることなく、フィールドワーク的な実証的経験科学への橋渡しをした。そして面白いことに、篤胤は寅吉や勝五郎を自分の家に住まわせて面倒を見ながら、彼らから霊的世界の話を聴き取り、それをもとに幽冥界の探究を進めていったのだ。折口はその篤胤を愛情を込めて、「極く気楽な先生」と評している。
このように、日本で本格的に「妖怪=もののけ」を研究し始めたのは平田篤胤が最初であるが、その師匠の本居宣長は「もののけ」ではなく「もののあはれ」を研究した人である。
本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』の中で、「すべてあはれといふは、もと、見るもの聞くもの触る事に心の感じて出る嘆息の声にて、今の俗言にも、ああといひ、はれといふこれなり」、「おほかた物語は、世の中にありとある、よき事あしき事、めづらしき事をかしき事、おもしろき事あはれなる事などのさまざまを、書きあらはして、そのさまを、絵にも書きまじへなどして、つれづれなるほどのもてあそびにし、または心のむすぼほれて、ものおもはしきをりなどの慰めにもし、世の中のあるやうをも心得て、もののあはれをも知るものなり」、「すべて世にあらゆる、見る物きく物ふるる事の、さまざまにつけて、うれしとも、おかしとも、あやしとも、をかしとも、おそろしとも、うれたしとも、うしとも、かなしとも、ふかく感ぜられて、いみじと思ふ事は、心のうちにこめてのみは、過しがたくて、かならず人にもかたり、又物にかきあらはしても、見せまほしくおもはるるものにて、然すれば、こよなく心のさはやぐを、それを聞見る人の、げにと感ずれば、いよいよさはやぐわざなり」と述べ、『石上私淑言』には、「さてその物のあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月に向ひて、あはれと情の感く、すなはちこれ、物のあはれを知るなり」と述べている。
つまり、「よろずの事の心を、わが心にわきまえ知り、その品にしたがひて感ずる」ことが「もののあはれを知る」ことだというのである。人の心の内に蠢く声、天地自然万物の発する声、その声に感応して「もののあはれを知る」心が生起してくる。そしてそれが絵画や文学などの芸術として表現される。本居宣長は「情に感ずる事は、みな阿波礼」だと言い、悲哀、うれし、おかし、あやし、をかし、おそろし、かなし、こひし、おもしろきことなどを例に挙げている。
要するに、しみじみと心を打つ感動にはさまざまなありようがある。「すべて何事にても、殊にふれて心のうごく事」、「阿波礼といふは、深く心に感ずる事」だから。すなわち、「情に感ずる事」はすべて「あはれ」で、それには天地万物の声の多様性に対応して多様なかたちがあるというわけだ。そしてこの「もののあはれを知る」ことにおいて、何よりももっともリアルでシリアスなのが「恋」である。そしてそれは『源氏物語』に至って頂点を極めると本居宣長は考えたのだ。
マーク・メリ氏の「『物のあはれ』とは何なのか」(第132回日文研フォーラム刊、国際日本文化研究センター)によると、「もののあはれ」の英訳には、@the sorrow of human existence(人間存在の悲哀)、Aa sensitivity to things(ものへの敏感さ――ドナルド・キーン)、Bemotional sensitivity to things(ものへの感情的敏感さ――ハルオ・シラネ)、Cthe affectedness―the pathos―of things(ものの感情なる趣――ノルマ・フィエルド)、Dthe meaningfulness of mono(ものの意味性)などがあるという。わたしは、この中で、Aの「ものへのセンシティビティ(敏感さ)」というドナルド・キーン氏の訳語と、Dの「ものに含まれる多義的意味性」という訳語が「もののあはれ」の英訳としてまだしも当を得ているのではないかと思う。
ところで、『源氏物語』を「もののあはれを知る」という観点からではなく、その深層に蠢いているモノ感覚をまったく別の観点から見るとどうなるか。華やかで雅な宮廷の「恋」のありさまを描いた『源氏物語』は、確かに本居宣長が言うように「もののあはれを知る」文学といえるが、同時にそれを仔細に見ていくと、そこには「もののけ」の文学という位相が浮上してくる。
例えば「葵」の巻に、「大殿には、御物の怪めきて、いたう、わづらひ給へば、誰も誰もは思し嘆くに、御ありきなど、便なき頃なれば、二条の院にも時時ぞ渡り給ふ。さはいへど、やむ事なき方は、殊に思ひ聞え給へる人の、珍しきことさへ添ひ給へる御悩みなれば、心ぐるしう思し嘆きて、御修法や何やと、わが御方にて多く行はせ給ふ。物の怪、生霊などいふもの、多く出で来て、さまざまの名のりする中に、人に更に移らず、たゞ、みづからの御身に、つと添ひたるさまにて、殊におどろおどろしう、わづらはし聞ゆる事もなけれど、また片時離るゝ折もなきもの、一つあり」とあるところなど、典型的なもののけの怖ろしさを知る文学の例だといえよう。
「大殿」、すなわち妊娠した葵の上に、「物の怪」が取り憑いて病気になった。そこでそれを封じ込め、祓いやるために、密教の「御修法」を行なうと、「物の怪」や「生霊」がぞろぞろ出てきて、依り代の童子を通じて名乗りを上げた。だがその時、片時も離れない霊が一つあった。どうやらそれは病気にかかっている六条御息所の生霊であるらしい。やがて葵上は男子夕霧を出産するが、とうとう病を深くして息絶えた。
このように、葵上の死のいきさつは「物の怪」の仕業と信じられ、それを祓うための修法が繰り返し真剣に行なわれたのである。「御物の怪の、度度とり入れたてまつりし」と記されるくらい、たびたび「物の怪」が葵上に取り憑いたからだ。しかし修法の甲斐なく、葵上は黄泉路を辿った。修法よりも「物の怪」の力が強力だったのだ。こうして父の左大臣や源氏は悲嘆に暮れつつ、葵上を鳥辺野に葬ったのである。
こうして、『源氏物語』が一面では「もののあはれを知る」文学でありながら、もっと深層的には「もののけの怖ろしさを知る」文学であるところに、単なる感情や情趣ではない霊性として“モノ”の底深き存在感覚がある。
かくして、ここにいう“モノ”とは、単なる「物」ではありえない。それは、目に見えない、不可思議な作用をする「霊(モノ)」であり、また何者かとしての「者(モノ)」であり、そしてその「モノ」が、「モノガタリ(物語)」を始めるのだ。
宮崎駿の人気アニメ『もののけ姫』(1997年)や映画『陰陽師』(2001年)にも、このような現代に至るまで蠢いている日本人のモノ感覚・モノノケ感覚が表現されている。 古代思想史から見ていくと、大物主神、物部氏、もののふ、物狂ひ、物狂ほし、鬼病(もののけ)」(『万葉集』)など、“モノ”にまつわるさまざまな神聖感情や霊威・霊感が表現されてきた諸相が見えてくる。そこでは“モノ”は、霊的次元(霊としてのモノ)から人間的次元(者としてのモノ)を経て物質的次元(物としてのモノ)に連続する“モノ”のグラデーションをなしている。
『枕草子』には、「胸のけ、足のけ、もののけ」などと語られ、『栄花物語』には「御物のけや、又畏き神のけや、人の呪詛など」とあり、また『今昔物語』にも「今は昔、物の気病するところありけり」と出てくる。
物(モノ)に霊(モノ)が宿り憑く憑霊感覚が、例えば、開眼供養や針供養などの仏像針などの像や器物のモノ供養の文化を生み出した。それは、物が単純に物理的な物質であるばかりでなく、霊的な存在次元を持っていることを意味している。折口信夫は「神々と民俗」の中で、もののけを「庶物崇拝の対象」となる「小さな神」とか、気の知れない「恐ろしい霊物」と言い、また「ものゝけ其他」においては、「源氏物語は固より、あの頃やその後の書き物類に、ものゝけと謂はれてゐるのが、怨霊である。この物語にも、叙述のおもてに、ものゝけが著しく出て来るのは、あたりまへである」、「元々『ものゝけ』と言ふ語は、霊の病(モノノケ)の意味であつた。ものは霊(モノ)であり、神に似て階級低い、庶物の精霊を指した語である。さうした低級な精霊が、人の身に這入つた為におこるわづらひが、霊之疾(モノノケ)である。後には霊疾の元をなす霊魂其物を、ぢかにものゝけとばかり言ふ様になり、それを人間の霊と考へたのである。人の怨霊をものゝけと言ふやうになつた平安時代に、御霊八所の信仰よりも更に古い形を残してゐたのは、『鎮花祭(ハナシヅメノマツリ)』であつた。此は、大神(オホミワ)・狭井(サヰ)両者を祭つて、春季に浮動する悪神を防ぎ遏へようとしたもので、三輪(ミワ)神荒魂・和魂の力を借りて、邪霊を鎮めようとするのだと言ふ見解もあつた。だが大神(オホミワ)及び狭井の神は、宮廷以前に、大和の地を持つてゐた神々であるから、春三月桜の花の咲き散る頃になると、神の霊が浮動して荒びたものであらう」と述べている。
かくして、「モノ」に宿る霊性や気配の感覚が日本文化には浸透しているといえるのである。
3、「日本的霊性」の再検討と「モノ学」の構築に向けて
わたしは、「日本的霊性」を考える際に、具体的に、日本人が「モノ」をどのようにとらえ、「モノ」と「こころ」と「からだ」と「いのち」と「自然」をどのような存在感覚において連関づけていたかを検証することが極めて重要であると思っている。例えば、針供養の習俗に典型的に見られるような、「モノ」が単なる「物」ではなく、ある霊性を帯びた「いのち」を持った存在であるという「モノ」の見方の中に、「モノ」と人間、自然と人間、道具や文明と人間との関係のデリケートで複雑微妙な位相がある。
器物にも人格性や霊性を認めるこの「モノ」の見方は、大仏の開眼供養からトヨタの自動車製作やソニーのコンピュータ開発やロボット製作にまで影響を与えていると思える。そしてそれは日本発の「モノ」の見方や価値観や美意識として、オルタナィブな世界認識の図柄を世界に向けて発信し始めているのではないだろうか。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」などもそのような文脈でとらえてみたい。
物は者を介して霊(モノ)となる。つまり、人格としての者が介在することによって、そこに精神性や霊性が付加されてくるのだ。そこには、日本文化特有の美学・美意識や異界意識として、「もののあはれ」や「もののけ」が関与しているといえる。観測不可能だと思われていたサルの個体識別を世界に先駆けて行ない、画期的な研究成果を上げた、九州の幸島のサル研究においても、そのような「モノ」の見方が影響していると思われる。
こうした「モノ」の気配認識のデリケートさを日本人の「モノづくり」の神髄ととらえなければ、日本の美術工芸などの技術水準の高さとそのクオリティの緻密さ・繊細さを説明できないだろう。そこには、物を単なる物として見ることのない「モノ」の見方の精神性がうかがえるのだ。言い換えると、そこでは、物質は霊性なのだ。
このような「モノ」認識から立ち上がってきた芸術化と産業化という二つの具体化に向かう創造力を持つ日本文化の特徴は、芸術が生活の中に溶け込みながら、日々の暮らしの中に息づき、生活の質(QOL)を高め、きめ細かく感性豊かにしてきたことにあった。和歌、俳諧、お茶、お花、盆踊り、年中行事等々、あらゆる芸術・芸能が生活の細部の価値を形成してき、民衆的エートスを基礎づけてきた。それが、人々の生きる力や生き甲斐の創出とつながってきたのである。柳宗悦の提唱した「民芸」運動もそうした日本人の生活芸術の文化を自覚的に取り上げようとした営みであった。
わたしは、このような日本文化におけるモノとココロとカタチの相互貫入の具体的発露の中にこそ「日本的霊性」のはたらきと顕現を読み取りたい。それは、モノに即してモノ作りしモノ語るという生活文化の蓄積である。
モノはまた、神体山信仰や庭園などの場の文化とも深く関わっている。このような「モノ学」の位相を、“もののあはれ”から“もののけ”、“ものづくり”、“ものがたり”までを貫く存在感覚としてとらえ、日本文化におけるものといのちと自然ないし場のかかわりの中に日本的霊性のありかを探ってみたい。
こうして、物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ「モノ」の位相とグラデーションとそれがもたらす創造のかたちを丸ごと捉えていく研究分野と研究方法として「モノ学」を構築したいと考えるのである。
この「モノ学」は、日本文明を作り上げてきた想像力―創造力の基底をなすと考えられる「モノ」認識と、その「モノ」認識に基づく価値観と表現のありようを、宗教学・美学・芸術学・比較文化論・比較文明論・脳科学・認知科学の観点と研究成果を取り入れながら、原理的かつ事例的に研究し、21世紀の創造力研究と諸種の表現・制作に寄与するものとなるだろう。例えば、「大物主神」という時の「モノ」、「もののあはれ」や「もののけ」や「ものがたり」の「モノ」、また大仏の開眼供養や針供養や「林檎の気持ちはよく分かる」という歌に表われたモノ認識を分析し、また、モノと心の統合点としての身体性の研究、モノ認識の比較文化史的・比較文明史研究を進め、総合的な「モノ学」の構築を目指す。「モノ」を単に「物」としてのみ見るのではない「モノ学」的視点を文明史・文明論にまで広げながら、21世紀の新たなる「モノ学」を構築し、ゆくゆくは「モノ学会」(もののあはれ・もののけ・ものがたり・ものづくり学会)を立ち上げようと企画している。
先に触れたように、ドナルド・キーン氏は「もののあはれ」を“a sensitivity to things”と訳した。氏の「ものへの敏感さ」という捉え方は的を得ていると言えるが、しかし「もの」を単純に”things”と訳すことは適切ではない。むしろ、「もの」を“spirituality”と訳すことさえ可能であろう。したがって、「もののあはれを知る」ことは、“a sensitivity to spirituality”とも言えるはずである。
それに関連して、「感覚価値」を考察していく。花を見て“きれい”と感じ、動物を見て“かわいい”と抱きしめたくなり、人気のない夜道で“気味悪い”とふるえたりする。こうした「質感」を伴う「感覚価値」の研究は、従来の定量的な感性研究では解明しえない人間研究における未知の学問分野である。
「もののあはれ」という日本文化的理念を、具体的に、「カワイイ・カッコイイ・ワクワク・ドキドキ・はんなり・こわい・すてき・おもしろい・たのしい」などの快美を表わす「感覚価値」形成の問題として分析していく。特に近年、「カワイイKAWAII」は世界共通語となっているので、「カワイイ認知学」は興味深いテーマとなるであろう。これらの形容詞や副詞で表現される「感覚価値」形成過程とその意味を、最新の脳認知科学や身体性認知科学やコミュニケーション科学の観点と、美学・芸術学・宗教学・民俗学の観点とを立体交差させながら解読していく。これは、「もののあはれを知る」ことを日本文学と日本的美意識の神髄と捉えた本居宣長の着眼をさらに厳密に科学し、哲学する試みである。
想像力―創造力の発現は、まずイメージを構想するところから始まる。世界を感知する身体の中で新しいイメージの世界や発想がどのように生まれてくるか。そして環境との相互作用の中でイメージやインスピレーションがどのように感覚や身体に作用を及ぼし、行動を促し、現実世界の改変を生みだす創造性を発揮するのか。そのメカニズムとその意味するところを検証する。
例えば、このイメージと脳と快美の質感との関係を「身質学」(身体的質感、肉体のフィギュールの研究、梅原賢一郎氏の視点)や脳認知科学の「クオリア論」(認知的質感、茂木健一郎氏の視点)からアプローチしてみる。定量的研究と定性的研究の狭間に横たわる人間の「感覚価値」を脳や身体やイマジネーションとの関係から解きほぐしていくのである。
また、このような「質感=クオリア」は「気配」という「感覚価値」とも結びつく。そこで、聖地、霊場、庭園、茶室など、人間の身体性に基づく「感覚価値」形成を場所や空間の側から検証していく。特に、聖なる空間形成・空間条件という観点から考察を加える。「気配」という言葉で表されてきた空間感覚は、空間が単なる無機的な物理空間ではなく、ある生きた、精神性や霊性を含む、流動する場の感覚情報を内包している。それは、神社の森や寺の境内や庭園の借景や茶室の造形に典型的に組み込まれている。
「気配」という独自な「感覚情報」が、場や空間を磁場として生成し、フローし、読み取られ、やり取りされる。「気配」という「感覚価値」は、空間演出デザインや情報デザインや建築・都市デザインにとって重要な指標となり、評価軸ともなりうるものである。
21世紀の新しい文明の創造には、新しい人間認識と身体論と感覚論が求められる。新しい生活世界を構想するためには、人間の感覚基盤の深化と再編集なしに創造力の賦活と拡充はないからだ。それゆえ、人間の感覚能力の可能性と再編成を探ることはきわめて重要な21世紀的課題となる。ヴァーチャル・リアリティや人工知能や遺伝子操作の問題を含め、人間の感覚器官や身体そのものがどのようになるか、人体改造技術が目覚しく進展する中で、人間の幸福と結びつく「モノ」認識と「感覚価値」のありようを探る研究は、21世紀を生きる人類のQOLを考えていく上でも大きな示唆を与えるものとなるであろう。
さてわが京都造形芸術大学は、創立の理念として「京都文芸復興」、さらに敷衍して「芸術立国─芸術による日本の再生」のビジョンを掲げ、活発な活動を展開している。
そもそも、「京都文芸復興」や「芸術立国」を掲げる本学が拠点を構える京都という都市は、古来、「平安京」として、四神相応の聖都にして日本文明の創造的拠点として1200年の都を営んできた、世界に冠たる“摩訶不思議文明都市”である。この点では、ローマ帝国の首都となり、その後もイタリアやヨーロッパ文明の中心ないし拠点であり続けてきたローマに匹敵する歴史と都市的創造力を保持してきた。
この京都の地で芸術創造を展開した人は最澄、空海、紫式部、小野小町、清少納言、和泉式部、西行、藤原定家、法然、親鸞、道元、一休、吉田兼好、吉田兼倶、世阿弥、利休、雪舟、光悦、出口王仁三郎など枚挙に暇がない。彼らはみなこの摩訶不思議文明都市の精神性・霊性に深い陰影と活力を与えている。こうして、常に敏感な感性と思想を以って時代的課題に反応し取り組んできた芸術運動と宗教運動が相乗的に作用して、この聖なる古都の創造の息吹を絶やさずにきたのである。
この古代からの摩訶不思議文明都市・京都の地において、「摩訶不思議アートツーリズム」の探究と実践を媒介にしつつ、わたしたちは身も心も魂も、そして社会も会社も面白く楽しく元気になる、ワクワク・ドキドキ活性創造力の開発と開拓に努めたい。そして、「楽しい世直し」に向かう、新鮮な息吹を放つ創造の遊びと探究の未知なる道に勇敢にチャレンジしてみたいのである。
参考文献
『本居宣長全集』筑摩書房
『上田秋成全集』国書刊行会
『平田篤胤全集』名著刊行会
鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫、1968年。
島薗進『精神世界のゆくえ』東京堂出版、1996年。
樫尾直樹編『スピリチュアリティを生きる』せりか書房、2002年。
伊藤雅之『現代社会とリピリチュアリティ』渓流社、2003年。
梅原賢一郎『カミの現象学』角川書店、2003年。
茂木健一郎『脳と仮想』新潮社、2004年。
茂木健一郎『脳と創造性』PHP研究所、2005年。
湯浅泰雄他編『科学とスピリチュアリティ』ビイング・ネット・プレス、2005年。
島薗進『精神世界のゆくえ』東京堂、1996年。
鎌田東二『神界のフィールドワ−ク』青弓社,1985年。(後にちくま学芸文庫、2000年)
鎌田東二『翁童論』新曜社、1988年。
鎌田東二『老いと死のフォークロア――翁童論2』新曜社、1990年。
鎌田東二『記号と言霊』青弓社、1990年。
鎌田東二『場所の記憶』岩波書店、1990年。(後に、講談社学術文庫、1996年)
鎌田東二『身体の宇宙誌』講談社学術文庫、1994年。
鎌田東二『宗教と霊性』角川選書、1995年。
鎌田東二編『神道用語の基礎知識』角川選書、1999年。
喜納昌吉+鎌田東二『霊性のネットワーク』青弓社、1999年。
鎌田東二『神と仏の精神史』春秋社、2000年。
鎌田東二『神道とは何か』PHP新書、2000年。
鎌田東二『エッジの思想――翁童論3』新曜社、2000年。
鎌田東二『翁童のコスモロジー――翁童論4』新曜社、2000年。
鎌田東二『ウズメとサルタヒコの神話学』大和書房、2000年。
加藤清+鎌田東二『霊性の時代』春秋社、2000年。
鎌田東二『元始音霊 縄文の響き』(CDブック)春秋社、2001年。
鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』岩波現代文庫、2001年。
鎌田東二『平山省斎と明治の神道』春秋社、2002年。
鎌田東二『平田篤胤の神界フィールドワーク』作品社、2002年。
鎌田東二『神道のスピリチュアリティ』作品社、2003年。
鎌田東二『呪殺・魔境論』集英社、2004年。
鎌田東二『霊性の文学誌』作品社、2005年。
鎌田東二『神様たちと暮らす本』PHP、2005年。
オフィシャルサイト:http://homepage2.nifty.com/moon21/
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