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■第1回研究会/「第2回近代産業遺産アート再生学会」2006年9月23日
六波羅よもやま話
京都造形芸術大学 歴史遺産学科 文化財保存修復コース三回生/山崎亜由美(学会会員)
京都摩訶不思議案内LIVEを開催していくに当たり、開催する会場の周辺地域にはどのようなものがあり、どのような歴史があったのかということについて調査することにした。 なぜなら、そのようなことを調査することによってLIVEで開催地の話題を取り上げたり、LIVEの来観者に新たな観光名所のコースを提供したりすることができると考えたからである。また京都摩訶不思議案内LIVEのような活動は地域住民の理解と協力が無ければ目的を達成し得ないため、開催者側が開催地のことをよく理解し、それを地域住民に伝えて、活用方法を提案したり意見を交換したりすることが必要であると考えたためである。以下歴史をたどりながら六波羅の地について見ていくことにする。
まず六波羅とは現東山宮川筋五町目辺りから同日吉町辺りにかけての鴨川東岸一帯を指す名称で、ほぼ五条通(現在松原通)から七条大路一帯の地を指す地名である。六波羅全図は図表1の通りである。
六波羅という地名の由来にはいろいろな説があるが、今回は2つの例を挙げる。まず鳥辺野に続く葬送地としての「髑髏(どくろ)原(はら)」に由来するという説がある。鳥辺野の所在地にも諸説あり正確には特定することはできないが、京都市埋蔵文化財研究所の報告書で鳥辺野の所在地として挙げられている町名を地図に当てはめて、その町の占めている範囲を辿っていくと、鳥辺野の所在地を図表2のように表すことができる。すると六波羅と呼ばれている地域と、鳥辺野の地域は重なり合うことが分かる。六波羅と鳥辺野の位置関係を図表3に示す。文書や地図に地名が書かれていたとしてもそれらは明確なものではなく、地名が指す場所は時代や都合によって変わっていくため六波羅と鳥辺野の境界線を引くことはできない。
鳥辺野は現在では葬送の地であるということは広く知られている。しかしその位置を正確に特定することは難しいことである。なぜなら平安京遷都以来、そこに住む人々は平安京から一歩外へ出た河川敷などに死体を放置していたためである。六波羅は平安京の外、鴨川より東に位置している。鴨川が京より外であると認識されていたならば、鴨川より東に位置する六波羅の地も京より外、葬送の場と認識されていたと考えることができる。
六波羅に所在している六波羅蜜寺の創建者である空也は、諸国遊行のとき、野原に遺棄された屍骸を見つけると一ヵ所に集め、油を注いで焼き念仏を唱えて回向したと伝えられている。そのような活動を行っていた人物の創建した寺が六波羅に存在していることの意味は大きい。また六波羅蜜寺のすぐ近くには、お盆の時期にあの世から祖先の精霊を向かえる六道参りや、冥府につながる井戸があることで有名な珍皇寺も存在している。このようなことから、六波羅一帯には葬送に関係する事物が多く存在知ることが分る。そのような六波羅の地の性格を見ると、六波羅が葬送地であり、髑髏原であったということを否定することはできないと言える。
六波羅は六波羅蜜寺にちなんだ地名であるとも考えられている。図表4は六波羅蜜寺の写真である。六波羅蜜とは、大乗仏教の修行を願うもの(菩薩)が、その理想を完成(波羅蜜)するために実践すべき6種の徳目である。それらは布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)を指す。
六波羅蜜寺は、963年の創建以来、葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきました。現在でも、正月に行われる皇服茶の授与や、8月8、9、10日に行われる万灯会など多くの行事が行われている。再び地名のことに戻る。六波羅蜜寺という寺名は「六波羅寺」もしくは「六波羅蜜」などと称されるようになる。そして『少右記』という平安時代中期の公卿藤原実資の日記によると、1047年12月4日条で、「六波羅蜜」は地名を示す名前になっている。このように六波羅蜜寺が所在する地域を「六波羅」と呼ぶようになったのではないかとも考えられている。
これからは様々な姿を見せる六波羅について紹介していく。
六波羅の地は葬送地鳥辺野の入口に当たり、何らかの葬送儀礼が行われていたとしても不思議ではない。霊のさまよいやすい所とされていたため、鎮魂の呪(まじな)いが必要な場であったとも考えられます。そのためか、六波羅には六波羅蜜寺以外にも信仰に関係するさまざまな建物や、出来事、人物の話が現在まで伝わっている。
前述した珍皇寺は中世以来、冥府とこの世の出入り口に当たると信じられ、亡者の精霊迎えの信仰で栄えた。図表5は珍皇寺の写真である。現在でも8月8日から10日まで、あの世から祖先の精霊を迎えるための参詣者で賑わっている。参詣人は境内で迎え鐘を突き、本堂で経木に戒名を書いてもらって水回向をし、門前で買い求めた高野槇に精霊を宿らせてわが家に持ち帰ります。これを六道参りと言う。また境内には、昼は朝廷に、夜は閻魔庁に勤めたという小野篁をまつる「篁堂」もある。そして珍皇寺の境内には閻魔大王像も安置されている。六波羅蜜寺にも閻魔大王像が安置されており、その脇には脱衣婆や使命、使録像も安置されています。このようにこの辺りには「この世」と「あの世」の境界を印象付ける事物が多く存在していると言える。
また珍皇寺の付近には六道の辻と呼ばれる場所がある。図表6は六道の辻の写真である。六道とはインドの世界観で、すべての衆生が、死ねばその生の業に従って輪廻転生するという六種の世界のことである。すなわち天道、人(間)道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を言う。六道の辻の場所を完全に特定することはできないが、珍皇寺門前のT字路とする説と、珍皇寺内の庭とする説がある。
また東山区弓矢町には大正14年まで愛宕念仏寺が存在した。図表7は愛宕念仏寺の写真である。寺伝によれば醍醐天皇の勅願で911年(延喜11)の落成とされ、千観の開基とされている。千観は、六波羅蜜寺を建立したと伝えられる空也の教えを受けて熱心に念仏を進め、念仏上人とも呼ばれた。
平氏と六波羅の関りは、12世紀初頭、平清盛の祖父、平正盛が珍皇寺付近に邸宅を構え、御堂(常光院)を建立したのが始まりである。そして平氏が六波羅に本格的な拠点を置くのは、次の忠盛の代からである。忠盛の方一町の邸宅に始まる平氏の六波羅邸は、清盛の代になって邸宅の数も増え、かなり大規模なものになった。これらの平氏の進出の理由を考えていくと、この時期の六波羅の様相を見ることができる。
まず正盛は六波羅に私堂を建てている。この時期、六波羅には多くの私堂が立ち並んでいた。珍皇寺の敷地内には下級官人や受領の私堂を中心に48もの堂が存在していたと考えられています。そして私堂は床下に死者の骨を安置する墳墓堂としての性格を備えていたとされている。つまり正盛は「信仰の地・六波羅」に私堂を求めたと言える。
そして忠盛は日宋貿易に深く関わっていたと言われている。交通の面から六波羅を見ると、小松谷を経て山科に抜ける道筋にあり、東国や伊勢平氏の本拠地である伊勢・伊賀への玄関口に当たる。また京都で頻発する火災に対処して京の周辺に建築物を設置しようとする場合、洛中では建立が規制されたため周辺部に広い寺地を占めて展開していた寺院の敷地がしばしば選ばれていた。つまり忠盛は「交通の要地であり空閑地・六波羅」に倉庫を求めたと言える。
そして清盛は六波羅に固執する動機はなかったと言える。清盛は西八条にも本拠地を設けていた。清盛は祖父以来構えてきた本拠を、守り、充実させ、六波羅に「武士の居住地」という側面を加えたと言える。
平家の屋敷配置を正確に復元することはできないが、一帯の町名に名残を留めている。平家邸宅の位置は図表8の通りである。まず多門町は六波羅邸の東に向かって開かれた惣門にちなんだ町名である。そしてその門の脇に平教盛邸の門脇殿があったとされる、門脇町がある。池殿町は清盛の継母池禅尼の邸宅を池殿にちなむ町名で、池殿はその息子頼盛に引継がれた。三盛町(旧泉殿町)は清盛の邸宅があったところで、三盛町の由来は頼盛の息子が光盛と称していたことによると考えられている。
六波羅の平氏の邸宅は清盛の時代には二十町あまりとなり、一族郎従の邸館数千宇が並んでいたと言う。しかし1183年、源平合戦の中で平氏は都落ちに際し、これらに火を放った。その後この地は、源頼朝に与えられ、京都守護の庁舎をはじめ武士たちの館が建てられた。1190年頼朝上洛に際し、頼朝邸が建てられたが、1203年に焼失した。
そして1221年の承久の乱に際し、北条泰時・時房が六波羅の北・南の館に駐留し、乱後の処理に当たることになった。六波羅探題全図は図表9の通りである。これが六波羅探題の起源である。これによって、六波羅の地は武士が集住し、六波羅探題の支配が強く及ぶようになっていく。六波羅探題の職務としては京都朝廷を監視して武士の不利にならないようにすることと、もう一つは「洛中警護」、京中の諸犯罪(放火・強盗・博奕など)を取り締まることであった。
しかし武家地の成立によって、六波羅の周辺が武士のみの生活する空間となってしまったわけではない。一方では、六波羅蜜寺や珍皇寺、念仏寺といった古代以来の寺院も依然存在していた。
六波羅蜜寺に安置されている仏像の中には鎌倉時代を代表する仏師運慶とその子湛慶の坐像がある。六波羅蜜寺境内にあった十輪院は運慶の菩提寺であるとされ、十輪院の本尊と伝えられる地蔵菩薩坐像も本堂に残されている。運慶は鎌倉幕府関係の像造に多く携わっており、六波羅が武家の地でもあることから、慶派の流れを継ぐ仏師が居住していたとも考えられている。
また六波羅蜜寺には空也上人像も安置されている。空也は市聖などと称され、民間に念仏を唱えることを広めた人物として有名である。しかし当時は、空也のように有名にはなりませんでしたが、彼のような活動をした聖はこの時期に無数に存在していたと言われています。六波羅蜜寺に安置されている空也上人の立像は胸に金鼓を右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露にして、草鞋を履き、念仏を唱える姿を写実的表現している。この像は運慶の四男康勝によって鎌倉時代に作られたものであるが、このような姿を表現するには実在する人物を参考にしなければできることではないのではないだろうか。そのためこの像を作る際に康勝が参考した人物が六波羅周辺にいたと考えても突飛ではないと考えられる。このような人物たちは念仏聖(阿弥陀聖)と呼ばれ、葬礼に加わったり、使者の役割をつとめたりするなど、民間の教化者として、行動の幅も広かったと言われている。
次に六波羅の位置する場所と関わりの深い事物を見ていく。珍皇寺の前を通る現松原通は以前の五条坂であった。この地は伏見と京都を結ぶ伏見街道の起点であり、また五条河原から方広寺、豊国社、更に清水坂へ至る道として人々の往来で賑わい、遊興の地としても知られていた。そして清水坂は洛中から清水寺へ至る最短の道であるとともに、山科へ抜けて東海道に合する近道として交通の要地でもあった。そのためにこの坂には運輸業に携わる車借を中核とする「宿」が形成され、また往来の参詣人たちに物を乞う流亡の民や、坂者とよばれる非人の集まるところともなった。
清水坂には二種類の非人が住んでいた。まず延暦寺と祇園社とに密接な関係をもつ犬神人がいた。彼らは鎌倉時代から江戸時代にかけて祇園社(八坂神社)に隷属し、最下級の神人として境内地・墓所などの清掃や祇園御霊会(祇園祭)の神幸の警護、神幸路の清めなどを主要な任務にするとともに、特に中世には比叡山延暦寺の末社であった祇園社の軍事的警察的組織をなして縦横に活躍した。図表10は上杉本洛中洛外図屏風に描かれている犬神人が祇園祭で神幸の警護をしている様子である。また京都での葬礼に関する権益を保持して布施を得たことも知られている。彼らはまた「つるめそ」とも呼ばれていた。彼らは沓(履物)とあわせて弓弦の製造・行商で生計を立てていたことから、「弦召そう」という売り声が人々の耳になじみ、それが犬神人の別称となって江戸時代に入って定着したものと考えられている。そして犬神人には、白布を組結にして覆面し、赤系統もしくは茶系統の「柿色」の衣を着用する独特の服装があった。図表11は犬神人の図である。
そして坂非人と呼ばれた癩病者たちも暮らしていた。彼らは犬神人の管轄下にあり彼らとは深い関係がある。彼らは長棟堂と呼ばれる建物に住み、勧進をして生計を立てていた。彼らは長棟堂と呼ばれる建物に住み、勧進をして生計を立てていたために、江戸時代になると物吉と呼ばれるようになり、彼らの住む場所は物吉村と呼ばれるようなった。そして彼らは白色や青灰色の衣を着用するという特徴を持っていた。図表12は物吉の図である。
このように五条坂は多くの人が住み、行き来していた。『清水寺参詣曼荼羅』を見ても当時の賑わいをうかがい知ることができる。
また六波羅を含む東山一帯は、焼き物の窯場としても有名である。五条坂一帯に所在した、五条坂焼きは江戸前期開窯の音羽焼から展開し、十八世紀後半以後、清水焼、粟田口焼とともに京焼の主要な窯場となった。幕末から明治にかけては清水焼と一体化し、近代の京焼を支える窯場となった。明治初年には粟田口焼と同様に海外貿易にも乗り出したが大半は生産を内需に向けていたために明治後半の貿易不況でも大きな影響を受けることなく、大正・昭和を乗り切ってきた。現在は陶家の多くが泉涌寺・日吉地区(東山区)、山科区へと窯を移しているが、依然、五条坂には数軒の窯元と問屋・小売商が軒を並べ、京都のやきもの屋街となっている。また現在でも毎年8月7日〜10日にかけて五条坂・陶器まつりが開催され多くの人で賑わっている。
最後にまとめにかえて、現在の六波羅について見ていく。
現在六波羅蜜寺では12月13日から晦日まで連続して空也踊躍念仏が行われている。空也踊躍念仏(踊念仏)は、山吹色の法衣を着た四人の僧が首から吊るした鉦鼓を叩きながら護摩檀の周りを時計回りにゆったりとした歩調で、「モーダ ナンマイト」と繰り返し、踊りながら歩いていき、一年間の罪障消滅を祈る行事である。図表14は空也踊躍念仏の写真である。
寺伝では、951年、京中に疫病が流行したとき、空也上人が、病魔退散を祈願して、自ら刻んだ十一面観音を車に乗せて、踊りながら念仏を唱えて京中を回り、病人を救ったことに始まると言われている。
六波羅蜜寺を建立したと伝えられる空也は、民間に念仏を唱えることを広めた人物として多くの人に知られている。しかしそれがどのようなものであったのかを知る人は少ないのではないか。しかし空也が始めたとされる念仏の形を伝える民俗芸能は現在も各地で行われている。六波羅蜜寺で行われている空也踊躍念仏もその一つであり、遠くはなれた歴史上の人物と私たちを近づけてくれる一つの手段として注目すべきものであると感じる。
続いて小島町というところで行われていることについて見ていく。小島町は1869年(明治2)、従来の東・西興善町及び寺林町を再編して成立した町である。当町はもとの東興善町にあたるが、町名の由来は明らかでない。小島町の所在地を図表15に示す。
小島町のあるお宅には「小島町まちづくり憲章」という張り紙が張ってある。この憲章は以前この周辺に学生マンションの建設が持ち上がり、その計画に反対するために小島町の住民が作ったものである。これによってマンションの高さを最初の予定より低くすることが出来た。また小島町は自分たちの住んでいる町をより良くしたり、乱開発を防ぐために活動したりしている町の団体、「京のまちづくり連合会」に所属している。
最後に京都摩訶不思議案内LIVEとその会場について見ていく。京都摩訶不思議案内LIVEが行われる会場は築約95年の登り窯の前の広場である。登り窯とは山などの傾斜地上に設けられ、勾配を利用して火度を上げる構造の窯ある。長方形の窯室数個を、傾斜面に、手前が低く奥が高くなるように並べて築き、燃料には薪を使用する。清水焼の産地は、大正期より五条坂のほかに、日吉・泉涌寺地区にも広がり、最盛期の1961年(昭和36)頃には、これらの地域全体で40〜50基の登り窯があった。しかし、登り窯から発生する大量の煙が問題となり、昭和46年(1971年)の大気汚染防止条例の実施で登り窯は使われなくなった。
藤平陶芸では登り窯は使われなくなったが、その隣の工房では電気窯を使って現在も焼き物の制作が行われている。そのため、現在登り窯は見学施設として公開されている。しかし、この登り窯をさらに活用し、多くの人にその存在を知っていただくために、私たちは京都摩訶不思議案内LIVE会場として利用している。
●参考文献●
・ 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』吉川弘文館、1979
・ 笠原盈夫『日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994
・ 下中弘『日本史大事典』株式会社平凡社、1992
・ 高橋慎一朗「空間としての六波羅」『史学雑誌』史学会、山川出版社、1992、 p1077〜1113
・ 財団法人京都市埋蔵文化財研究所『京都市遺跡地図』1980
・ 朝倉治彦『人倫訓蒙図彙』株式会社平凡社、1990
・ 鈴木棠三『日本職人辞典』株式会社東京堂出版、1985
・ 勝田至「鳥辺野考」大山喬平教授退官記念会『日本社会の史的構造』株式会社思文閣出版、1997、p441〜462
・ 岡見正雄、佐竹照広『標注 洛中洛外図屏風 上杉本』株式会社岩波書店、1983
・ www.its-mo.com(地図はゼンリンホームページより引用し筆者が加工した)
・ www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi09.html
・ http://hikaritokage.hp.infoseek.co.jp/syogo/kiyomizu_san.jpg
● 研究会発表 詳細
▼山崎
京都摩訶不思議案内LIVE会場の登り窯のある六波羅というちいきについて発表させていただきます。京都造形芸術大学歴史遺産学科文化財保存修復コース3回生の山崎亜由美と申します。
このような場で発表させて頂くのは初めいてですので、お聞き辛いこともあると思いますが、宜しくお願いします。早速発表を始めさせていただきます。
まず、六波羅とは現東山区宮川筋5丁目辺りから同日吉町あたりにかけての鴨川東岸一体を指す名称でほぼ五条通り、現在の松原通りから七条通りの一体の地を指す地名です。
六波羅という地名の由来についてはいろいろな説がありますが今回は二つの例を挙げたいと思います。
まず、鳥部野に続く葬送地としての髑髏原に由来するという説があります。鳥部野の所在地にも諸説あり、正確には特定することが出来ませんが、京都府埋蔵文化財研究所の報告書で鳥部野の所在地としてあげられてる町名を地図に当てはめて、この街の占めている範囲をたどっていくと鳥部野の範囲を図のように表すことが出来ます、大体北は八坂神社の少し南側から南は伏見稲荷の少し手前までをさしていて、西は東大路通りの手前までなんですが、ちょっとこっちの辺に広がってないのがおかしいなと思っているんですけれどもこれh亜多分住宅地がもう建てられていて、もう発掘調査が行われなかったのではないかなと思っています。
それで、この地図を六波羅の地図と当てはめてみるとこのようにかさなりあうことが分かります。文書や地図に地名が書かれていたとしても、それらは明確なものではありませんし、地名が指す場所は時代や都合によって変わっていきます。そのため、六波羅と鳥部野の境界線を引くことは出来ません。鳥部野は現在では葬送の地であることは広く知られています。しかし、その位置を正確に特定することは難しいことです。
なぜなら、平安京遷都以来そこに住むひとびとは平安京から一歩、外へ出た河川敷などに死体を放置していたからです。六波羅は平安京の外、鴨川より東に位置しています。
鴨川が京より外と認識されていたならば、鴨川より東に位置する六波羅の地も京より外、葬送の場と認識されていたと考えることが出来ます。
六波羅蜜寺の創建者である空也は諸国遊行のとき野原に遺棄された死骸を見つけると一箇所に集め、油を注いで、焼き、念仏を唱えて移行したと伝えられています。そのような活動を行っていた人物が創建した寺が六波羅に存在していることの意味は大きいと感じます。
また、六波羅蜜寺の近くにはお盆に時期にあの世から祖先の精霊を迎える六道参りや冥府に繋がる井戸のあることで有名な珍皇寺も存在しています。このようなことから、六波羅一体には、葬送に関係する事物が多く存在していることが分かります、そのような六波羅の地の性格を見ると、六波羅が葬送地であり、髑髏原であったということを否定することは出来ないといえます。
次に、六波羅は六波羅密寺にちなんだ地名とも考えれています。
六波羅蜜とは大乗仏教の修行を願い者、菩薩がその理想を完成することそれを、波羅蜜といいます、その6つの徳目は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を指します。
六波羅蜜寺は963年の創建以来、葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきました。現在でも正月に行われる大福茶の授与や8月8日から10日に行われる万灯会など多くの行事が行われています。
再び地名のことに戻りますが、六波羅蜜寺という寺の名前は六波羅寺、六波羅蜜と称されるようになることが地図などから分かっています。そして、小右記という平安時代中期の公卿、藤原実資の日記の1047年12月4日条では六波羅蜜は地名を指す名詞としても使われるようになっています。
このように、六波羅蜜寺が所在する地域を六波羅と呼ぶようになったのではないかとも考えられています。
これからは、さまざまな姿を見せる六波羅について紹介していきたいと思います。
六波羅の地は葬送地、鳥部野の入り口にあたり何らかの葬送儀礼が行われていたとしても不思議ではありません。霊のさまよいやすいところとされていたため鎮魂のまじないが必要な場でだったと考えられます。そのためか、六波羅には六波羅蜜寺以外にも信仰に関係するさまざまな建物や出来事、人物の話が現在まで伝わっています。
珍皇寺は中世以来冥府とこの世の出入り口にあたると信じられ、祖先の精霊迎えの信仰で栄えました。現在でも8月8日から10日まで、あの世から祖先の精霊を迎える参詣者でにぎわっています。
参詣人は、境内で迎い鐘をつき、本堂で喬木に戒名を書いてもらって、水回向をし、門前で買い求めた高野槇に精霊を宿して家に持ち帰ります。
これを、六道参りといいます、また境内には、昼は調停に夜は閻魔王にも使えたという小野篁を祀る篁堂もあります。
そして、珍皇寺の境内には閻魔大王像も安置されています。
六波羅蜜寺にも閻魔大王像が安置されており、その脇には奪衣婆やシメ、シロク像も安置されています。
このようにこの辺りには、この世とあの世の境界を印象付ける事物が多く存在しているといえます。また、珍皇寺の付近には六道の辻と呼ばれる場所があります。六道とはインドの世界観ですべての生き物が死ねばその人の生き方によって輪廻転生するという六種の世界のことです。
すなわち天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道を言います。六道の辻の場所を完全に特定することはできませんが、珍皇寺門前のT字路とする説と珍皇寺内の庭とする説があります。
また、東山区ユミヤ町には大正14年まで愛宕念仏寺が存在していました。
寺伝によれば醍醐天皇の勅願で、911年の落成とされ、千観の回帰とされています。
千観は空也の教えを受けて、年真に念仏をつとめ、念仏上人とも言われました。
この寺の名前は、ここで念仏が行われていたことを表しているといえます。そして六波羅は平氏との関わりもありました。
平氏と六波羅の関わりは12世紀初頭、平清盛の祖父、正盛が珍皇寺付近に邸宅を構え、御堂、これを上皇院といいました…を建立したのが始まりです。そして、平氏が本格的な拠点を置くのは次の忠盛の代からです。
忠盛の方一町の、一町というのは大体120m四方を指します…にはじまる平氏の六波羅は清盛の代になって邸宅の数も増え、かなり大規模なものになりました。
これらの平氏の進出の理由を考えていくとこの時期の六波羅の様子を見ることが出来ます。
まず、正盛は六波羅に祠堂を建てています。
その時期、多くの祠堂が立ち並んでいました。珍皇寺の敷地内には下級官人や受領の祠堂を中心に48もの塔が存在していたと考えられています。そして祠堂には床下に死者の骨を安置する墳墓堂としての性格を備えていたされています。
つまり、正盛は信仰の地、六波羅に祠堂を求めたといえます。そして、忠盛は日宗貿易に深く関わっていたといわれています。交通の面から六波羅を見ると小松谷を経て山科に抜ける道筋に辺り、東北や伊勢平氏の本拠地に当たる、伊勢・伊賀への玄関口に当たります。また、武士たちが京都で頻発する火災に対処して京の周辺に、建築物を設置しようとする場合、洛中では建築物を建立することが規制されていたため、周辺部に広い寺の敷地を占めて展開していた寺院と敷地がしばしば選ばれていました。つまり忠盛は交通の要地であり、空間地…場所が空いているという意味です。
六波羅に倉庫を求めたといえます。そして清盛は六波羅に固執する動機はなかったといえます。清盛は西八条にも本拠地を設けていました。つまり清盛は祖父以来構えてきた本拠を守り、充実させ、武士の居住地という側面を加えたといえます。
平家の屋敷配置を正確に復元することは出来ませんが、一端の町名に名残をとどめています。まず、ちょっと見えにくいんですがココがタモン町です。多門町は六波羅邸の東に向かって開かれた総門にちなんだ町名です。その脇にこれは『カドワキ町』と読みます。
平教盛邸の門脇殿があったとされる、門脇町があります。
そして、イケゾノ町は清盛の継母池禅尼の邸宅を池殿と呼び、それにちなむ町名で池殿はその息子、頼盛に引き継がれました。池殿町はここです。
そして、ミツモリ町は清盛の邸宅があったところで、光盛町の名前の由来は頼盛の息子が光盛と称していたことによると考えられています。
六波羅の平氏の邸宅は清盛の時代には20町余りとなり、一族郎従の館数、数千がならんでいたといわれます。
しかし、1083年源平合戦の戦いで平氏は都落ちに際し、これらに火を放ちました。
その後、この地は源頼朝に与えられ、京都守護の庁舎を始め、武士たちの館が建てられました。1190年、源頼朝の上洛に際し、頼朝邸が建てられましたが、1203年に消失してしまいました。
そして、1221年の承久の乱に際し、北条泰時、時房が六波羅の北、南の館に駐留し、乱後の処理にあたることになりました。これが、六波羅探題の起源です。
これによって、六波羅の地は武士が集住し、六波羅探題の支配が強く及ぶようになっていきます。
六波羅探題の職務としては、京都朝廷を監視して、武士の不利にならないようにすることと、洛中警護。京中の諸犯罪、放火、強盗、博奕などを取り締まることでした。しかし、武家地のの成立によって六波羅の周辺が武士のみの生活する空間になってしまったわけではありません。
一方では六波羅蜜寺や珍皇寺、念仏寺といった、古代以来の寺院も依然存在していました。
そして、このような時代にこの周縁に住んでいた人達の痕跡を見ることも出来ます。
六波羅蜜時寺に安置されている仏像の中には鎌倉時代を代表する、運慶とその子湛慶の坐像があります。
運慶は東大寺南大門の金剛力士像をつくったことで有名ですし、湛慶は三十三間堂の千手観音像を作ったことで有名です。
六波羅蜜寺内の境内にあったジュウリン院は運慶の菩提樹であるとされ、ジュウリン院の本尊と伝えられる、地蔵菩薩像も本堂に残されています。
運慶は鎌倉幕府関係の造像に多く携わっており、六波羅が幕府とカンケイの強い地でもあることから運慶の流れをくむ仏師が居住していたとも考えられています。また、これは六波羅蜜寺に安置されている空也上人像です。
空也は市聖などと称され民間に念仏を唱えることを広めた人物として有名です。
しかし、当時は空也のようには有名にはなりませんでしたが、彼のような活動をした聖は無数に存在していたといわれています。空也上人の立像は胸に金鼓、鉦を持っていて、右手にそれをたたく棒を持っていて、左手に鹿の角の杖を持っていて、ひざをあらわにして草鞋を履いていて、念仏を唱えているという姿を現しています。そしてこの像は、運慶の四男康尚によって鎌倉時代に作られたものです。空也上人は平安時代の人なのでその次の時代に作られたということです。
で、そうゆう人がこのような姿を表現するには、実在する人物を参考にしなければ出来ることではないのではないかと思いました。
そのため、この像を作る際に康尚が参考にした人物が六波羅周辺にいたと考えてもとっぴではないと思います。このような人物たちは、念仏聖と呼ばれ、祭礼に加わるなど民間の教化者として行動の幅も広かったといわれています。
次は、六波羅の位置する場所と関わりの深いことについて紹介します。
珍皇寺の前を通る松原通りは以前の五条坂でした。この地は伏見と京都をむすぶ伏見街道の基点であり、また五条河原から方広寺、トヨクニ神社、さらに清水坂へいたる道として、人々の往来で賑わい、友好の地としても知られていました。
そして、清水坂は洛中から清水寺に至る最短の道であるとともに山科へ抜けて、東海道に合流する近道として、交通の要地でもありました。そのため、この坂には運輸業に携わる、車借を中心とするシュク。シュクというのは仲間という意味でいいと思います。
が、形成され、また往来の参詣人たちにものを請う流亡の民や坂のものと呼ばれる非人の集まるところともなりました。
清水坂には二種類の非人が住んでいました。まず、延暦寺と祗園社とに密接な関係をもつ犬神人がいました。かれらは、鎌倉時代から江戸時代にかけで、祗園社、今の八坂神社です。
に、隷属し、最下級の神人として境内地、御所などの清掃や、祗園御霊会、祇園祭のことです。
の、進行時の警護、進行路の清めなどを主要な任務とするとともに、特に中世には比叡山延暦寺の末社であった、祗園社の軍事的警察的組織をなして、縦横に活躍していました。
また、がさ入れに関する権益を保持して、布施を得たこともしられていたとも知られています。彼らはまた、つるめそとも呼ばれていました。
かれらは、靴とあわせて弓づるの製造を行商で生計をたてていたことから、するめそう、つるを買いませんかという意味です。というような売り声が人々の耳になじみそれが犬神人の別称となって江戸時代になって定着したものと考えられています。
そして、犬神人には白布を覆面にして、赤系統とか茶系統の柿色と呼ばれる衣を着ていました。そして、坂非人とよばれたライ病者の人達も暮らしていました。彼らは犬神人の管轄化にあり、かれらとは深い関係があります。
彼らは、中棟堂とよばれる建物に住み、勧進をして生計をたてていました。彼らはものよしという祝詞を唱えながら、市中をまわり、勧進していたために江戸時代になるとものよしと呼ばれるようになり、彼らの住む場所はものよし村と呼ばれるようになりました。
そして彼らは、白色や青灰色の服を着用するという特徴をもっていました。
このように五条坂は多くの人が住み、行き来していました。清水寺参詣曼荼羅をみても当時の賑わいをうかがい知ることが出来ます。
また、六波羅を含む東山一体は焼き物の窯場としても有名です。
五条坂一体に所在した五条坂焼きは江戸時代前期かいようの音羽焼きから展開し、18世紀以降、清水焼、粟田口焼きとともに京焼きの主要な窯場となりました。
幕末から明治にかけては清水焼と一体化し、近代の京焼を支える窯場となりました。
現在は陶家の多くが泉涌寺、日吉地区、山科地区へと移していますが、依然五条坂には数件の窯元と、問屋、小売商が軒を並べ、京都の焼き物屋街となっています。
また、現在でも毎年8月7日から10日にかけて五条坂陶器祭りが開催され多くの人でにぎわっています。
では最後にまとめに替えて、現在の六波羅について紹介します。まず、六波羅蜜寺の空也踊躍念仏についてです。現在、六波羅蜜寺では12月13日からみそかまで、連続して空也踊躍念仏が行われています。
空也踊躍念仏は山吹色の法衣をきた4人の僧が首からつるした鉦を叩きながら護摩壇の周りを時計回りにゆったりとした歩調で『ホーダーナンマイトー』というようなことを繰りかえして踊りながら歩いていきます。これは一年間の罪障の消滅を祈る行事です。
寺伝では951年、京中に疫病が流行したとき、空也上人が病魔退散を祈願して、自ら刻んだ11面観像を車にのせて踊りながら念仏を唱えて京中を回って、病人を救ったことに始まるといいます。
六波羅蜜寺を建立されたといわれる空也は、民間に念仏を唱えることを広めた人物として多くの人に知られています。
しかし、それがどのようなものであったかというのを知る人は少ないのではないでしょうか。
しかし空也が始めたとされる、念仏の形を伝える民俗芸能は現在も各地で行われています六波羅蜜寺で行われている空也踊躍念仏もその一つであり、遠く離れた歴史上の人物と私たちを近づけてくれる一つの手段として、注目すべきものであると感じます。
続いて、小島町というところで行われいていることについて紹介したいと思います。
小島町のあるお宅には小島町町づくり憲章という張り紙が貼ってあります。
その憲章はこの周辺に学生マンションの建設が持ち上がり、その計画に反対するために小島町の住人が作ったものです。
これによってマンションの高さを最初の予定より低くすることが出来ました。
わたしはこの憲章を見たとき複雑な気持ちになりました。
現在は近隣のつながりが薄れていき、気にかけるという町の役割の崩壊が危惧されています。そのような中で、自分たちの住む環境を守るため住民が一丸となって立ち上がるという姿を目の当たりにし、自分たちの住環境に目を向けるということについて考えさせられました。
私はそのような住人たちの活動に共感しながらも、私自身が学生マンションの住人であるため複雑な気持ちになりました。私たちは多くの場合、自分の行うことに対して批判的な目をもつことは難しいことです。が、他人が行うことに対しては、それは容易なことであるように感じます。
私がある町を歩いていて、この風景はどうかと思うことがあっても、自分の住む町を見て、この風景は他から見て、どう思われるかなどと考えることはないように、一つの風景はよくも悪くも見えます。
風景は私たちの暮らしと深く結びついているものです。一つの風景を見るにしても、いろいろな視点が必要である改めて感じさせられました。
最後になりましたが、京都摩訶不思議案内LIVEとその会場について話したいと思います。
京都摩訶不思議案内LIVEが行われる会場は築、約95年の登り窯の前の広場です。
登り窯とは山などの傾斜地上に設けられ、勾配を利用して角をあける構造の釜です。
長方形の窯室数個を傾斜面に手前が低く、奥が高くなるように並べていき、燃料には槇を使用します。
清水焼の産地は大正期より五条坂のほかに、日吉、泉涌寺地区にも広がり、最盛期の1961年頃にはこれらの地域、全体で40から50基の登り窯があったとされます。
しかし、登り窯から発生する大量の煙が問題となり、昭和46年の大気汚染防止条例の実施で、登り窯は使われなくなりました。
このことによって登り窯は使われなくなりましたがその隣の工房では電気窯を使って、焼き物の製作が行われています。そのため、登り窯は見学施設とされ、一般公開されています。しかし、この登り窯をさらに活用し、多くの人たちにその存在を知って頂くために、私たちは京都摩訶不思議案内LIVE会場として利用しています。
この会場では、教科書でよく知られた歴史とは違った視点から、京都や京都にまつわる話などをいろいろな講師の先生の語ってもらったり、音楽を演奏したり、能や狂言を実演したりして、京都に住む人達や京都に来た人達に、この登り窯の存在を知ってもらいたいと活動しています。
京都にはこのようにまだ知られてはいませんが京都の歴史を語るための素材が多く残されています。
京都に暮らす人々も京都を訪れる人々もそれぞれ京都についていろいろなことを知っていると思いますが、実際に住んだり来たりして今の京都を自分の目で見ることは重要なことであると感じます。
京都の観光雑誌を見るとそこにはお寺や神社などの古い木造の建物や美しい庭園が並べられていて、京都にはそのようなものしかないように感じます。
しかし、京都に来て、紹介されているお寺や神社にいくとその周りには高層ビルがありコンクリートの道路には多くの車が走っています。私はそのような過去と現在のギャップに戸惑ったことがありました。
過去と現在に境界線はないはずなのに、今の観光雑誌を見ると遠い過去ばかり切り出され、そればかり注目され、そこで時間が止まっているような印象を受けます。
確かに私も、木造の古い建築や気取りの美しい庭園は好きです。
しかし、京都にはそれだけしかないわけではありません。
私は京都という場所はお寺や神社、舞妓さんがいて高層ビルもマンションも西洋風の建築もあり、これからの社会を担っていく学生が学ぶ多くの学校もあるという歴史が重なり合った街であると感じます。
過去と現在に境界線を引くことは出来ないはずです。京都はある一時代の歴史を語っているのではなく、京都に人が住み始めてから、現在に至るまでのすべての歴史を持っている点が注目すべきことです。
京都はさまざまな時代を語ることの出来ることものがバランスよく残されています。
そのため、私たちはある時代のものばかり見るのではなく、さまざまな時代のものを見て、それを人に伝え、残す方法を考えなければなりません。
なぜなら、いろいろなものを知って、今の京都、これからの京都をつくっていかなければならないからです。過去ばかりに頼っていたら、将来の人達にこの時代に作られたものを残すことが出来ません。素晴らしく美しい過去に負けないように今の京都を作っていかなければならないと思います。
だから、私たちは歴史を伝え、残していかなければならないと思います。そして、京都にあるあまり知られていない歴史を伝えも残す方法のひとつが京都摩訶不思議案内LIVEだと開示します。以上で私の発表を終わります。
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